明るい空から大粒の雨の雫(しずく)が時折パラパラと落ちてくるような、そんな天気の日が昔から好きでした。見渡す限りの空間を満たして落ちてくる大粒の雨の雫のひとつひとつが光を宿して、まるで自身が光を放ってでもいるようにキラキラと輝いています。急ぎ足で駅前のロータリーを横切っていく人の波に雨の雫が降りかかると、色とりどりの傘の華がパッと一斉に咲きます。

 空のどこか高みに風の通り道があるのか、雲のかたまりがびっくりするほどの速さで北へ流されていきます。空はどこか明るくて、今にも雲が切れそうです。その雲の上では日毎に光の飽和したあの夏の空が用意されていきます。そして地上には、一体誰の粋な計らいか、その空の色を写した紫陽花の花……。

 そんなふうに考えれば梅雨も案外捨てたものではないですね。

 

 ご存知のように「五月雨(さみだれ)」の「五月」は旧暦の五月であって、つまり「五月雨」とは「梅雨」を指す言葉であります。従って「五月(さつき)晴れ」は「梅雨晴れ」ともなり、梅雨の合間の晴れた日を表現した言葉という理解になります。ところが、字面に導かれてか、これらは「五月の雨」「五月の気持ちよく晴れた日」とのイメージが強い気がするのです。ただし現代では「五月晴れ」に限って新暦をそのまま当てはめて後者の扱いも許容されます。

 

 この「五月雨」という言葉、「古今集」以来用いられてきた雅語(がご)で、対して「梅雨」は俗語となります。「さみだれ」を「小乱れ」に掛けて恋に心乱れる様を歌ったわけですが、いかにも平安歌人らしい気がしますね。

 

 ところでこの季節、空模様だけでなく、ぼくらの生活そのものもどこかはっきりしないぐずついたものになりがちです。季節感と生活心理との呼応は恐らく間違いのないことで、日本人はそういった傾向がことさら強いようですが、だとすればなおさら、心にも「五月晴れ」の一日を用意する工夫が必要になってきます。心までカビてしまわないように、しっかりと心の窓を開け放ち、新鮮な風を送り込んでやりましょう。

 

 ちなみにこの季節に特徴的な風の呼び名に、青嵐(あおあらし)・あいの風・薫風・黒南風(くろはえ)・白南風(しろはえ)などがあります。

文責:石井