「末期」は「まっき」ではなく、この場合は「まつご」と読み、「死に際(ぎわ)・臨終(りんじゅう)」を意味します。

つまり「末期の眼(まつごのめ)」は、「死に際にみる自然がとても美しく見えたり、臨終に際してあらゆるものが愛(いと)おしく感じられたりする」ことを表現していますが、「死に際・臨終」でなくとも「末期の眼」を手に入れることは不可能ではありません。

茶道の心得である「一期一会」は、「ただこの瞬間に互いの思いを尽くす」という姿勢であり、「末期の眼」に通じるものがあります。

 

『いちはつの花咲き出でてわが目には今年ばかりの春ゆかんとす』  正岡子規

【解釈】

(春の終わりを告げる)いちはつの花が咲き始めて、(病で明日をも知れぬ)私の目には、人生最後の春がゆこうとしているのが(ひときわ胸に迫って)映っている。

いちはつの花=一初の花。あやめ科の多年草。晩春に薄紫や白の花をつける。

今年ばかりの春=今年が最後となる春。私の人生における最後の春。

 

『柿くうも今年ばかりと思いけり』 正岡子規

【解釈】

「(大好物の)柿を食べるのも今年が最後になるのだなあ」と(しみじみ)思った。

 

21歳のとき罹患(りかん)した結核(けっかく)が重症化して35歳で亡くなった正岡子規は、「末期の眼」を感じさせる短歌や俳句を残しています。

 

たとえこの瞬間に命を落としても後悔のない生き方を表す「臨終只今(ただいま)にあり」という言葉があります。

日々出会う人たちを、季節ごとに咲く花を、過ぎていく「今日」という一日を、「今日限り」と思って慈(いつく)しむこと、そんなふうに人生を「丁寧(ていねい)」に生きることができたら素敵(すてき)ですね。

文責:石井