※「アーカイブ」ですので、特に年代の表記に大きなずれがあります。

早いもので、もう五年の歳月が流れます。
西暦2000年の、梅雨が明けて間もない七月の暑い夜、彼女は誰に看取られることもなく逝(い)ったのです。死期を悟った彼女が、その血に宿ったプログラムに従って人目につかない場所へと身を隠したのですから、正確には「行った」と言うべきなのですが、彼女が帰らなくなって七日目の夜、我が家では久しぶりに一同総出で、彼女を追悼する会食の席を設け、納得のいくはずもない心を持て余しつつ、その日をもって彼女の命日とすることを確認しあったのでした。

生まれて間もなく我が家の住人となり、以来十七年間連れ添った(「連れ添う」というのは適切な表現ではありませんが、相応(ふさわ)しい表現ではあります)「コタロー」と呼ばれた彼女は、大人しいくせに人見知りで人一倍臆病な、家猫として生きる以外にすべのない猫(それがいいことなのかどうかは別にして)でした。もらわれてきた当時は掌にのるほどの小さな存在で、甘えん坊の彼女は夜中になると決まって、仮の住まいであるダンボールの箱を抜け出して布団の中へもぐりこんでくるのです。そして寝ているぼくの胸の上にはい上がって、そこで安心して丸くなるのでした。成猫となってからも充分小柄だった彼女ですが、さすがに寝ている間に胸の上にはい上がられると息苦しさを感じるようになり、ていねいに言い聞かせつつ、幾度も抱き上げて下ろしたものです。すると胸にはい上がるのを諦めた彼女は、今度は添い寝をするようにして、前脚の片方を、あるいは尻尾の先をぼくの腕や足の上にのせて、それで安心したようにぐっすりと眠るのでした。
黒虎と三毛の混じったような色合いの、信じられぬほど柔らかい毛並みで、四肢の先と胸一面に真っ白い雪のような和毛が印象的な、美人というよりは可愛らしい顔立ちの猫でした。特別の場合以外はほとんど鳴き声をあげず、餌箱や水桶が空であっても、またトイレの扉が締まっている時でも、前脚を行儀よくそろえて座り、ただ黙って誰かが通りかかって気付いてくれるまで辛抱強く待ち続けていました。たまに餌をねだることがあっても、それは決まって母に対してで、彼女の好むキャットフードに、ついつい余計に鰹節などをのせてやる母の行動を見抜いていたようです。また、母や弟が抱き上げるとさっさと逃げ出すくせに、ぼくが抱き上げた時だけは安心しきったように、いつまでもその体重をぼくの腕に預けていました。遊び相手となるのは決まって弟で、時折興奮して弟の手足に傷を残したりもしました。彼女は、そんな風に家族一人ひとりとの付き合い方を決めていたようです。
五階建てマンションの最上階にある我が家の住人であった彼女は、その一生のほとんどの時間を屋内で過ごしました。いつだったか戯(たわむ)れに近隣の公園に連れ出した時など、物心ついてから初めて見る外の世界に戸惑いおびえて、丈(たけ)の短い草叢(くさむら)に、それでも何とかして身を隠そうとはいつくばり、ブルブルと全身を震わせて、とうとう一歩たりとも歩くことが出来なかったのでした。
そんな彼女も、人々の寝静まった夜更けに限っては、玄関脇の三畳間でパソコンを操るぼくを促(うなが)して、マンションの五階フロアの探検に出たりしました。そして気が向けば、後見人であるぼくの存在を振り返っては確かめつつ、四階のフロアまで降りてみることもありましたが、けれども、彼女の「外」の世界はそこまでが限界で、十七年間、とうとう自らの意志でその先の世界を踏むことなく老いを迎えたのでした。

ちょうどその日は熱帯夜で、風通しのために半開きにした玄関のドアから、彼女は深夜一人で外へ出たらしいのです。それは共に暮らした十七年間で初めてのことです。仮に彼女が自らの死期を悟って家を出たのだとしても、ぼくら家族に背を向けて一人きりの深夜の階段を、あの人一倍臆病な彼女が一体どんな思いで降りて行ったのかを想像すると、当時はもちろんのこと、五年たった今でも胸が締め付けられるようです。けれども一方で、最後の最後くらい、どうしてわがままを言えなかったのかと悔しい思いも感じます。十七年間も苦楽を共にしてきた家族の一員として、あまりにもみずくさい。むしろ、その最期を看取り、無事に野辺送りするくらいのわずかな苦労をぼくらに課してくれてもよかったのに……と。

そして、彼女のいない日常が始まり、やがて餌箱が片付けられ、彼女の愛用していたトイレの猫砂が処分され、彼女のために深夜に団地の廊下へ出て一服する時間もなくなり、次第にぼくらの哀しみは麻痺するように薄れていきます。けれども、彼女をゆっくりと忘れるように失っていくことだけはしたくなかったぼくは、仮に哀しみがこの胸を引き裂いて日毎に新しい血を流すのだとしても、あえてその哀しみを背負って歩く人生を選ぼうと、あの夏、そんな風に決意したのです。
彼女が確かに生きていた証として。そして、ぼくら家族が、どれだけその存在に支えられていたかということを失って初めて痛いほどに思い知らされた、彼女と共に生きた十七年間への感謝を込めて。