~塀の中の中学校~

先週ある雑誌を見ていて、大変感激した投稿に出会いましたので、是非ご紹介いたします。
それは松本市立旭中学校桐分校元教官角谷敏夫先生の「ひとつ学べばひとつ世界が広がる」という文章です。

桐分校は、日本でたった一つしかない刑務所の中の中学校です。昭和30年設立といいますから、今年で56年になります。角谷先生は、この分校で33年間担任を務められました。角谷先生がなぜ普通の中学ではなく、桐分校を選ばれたのか。
まず、わたしはそこに興味がわきました。以下、抜粋です。

 「中学の頃から教師を目指して高校、大学へと進学。ところが、いざ一生の進路を決めるという段になって、私は考え込んでしまいました。他の友人たちと同じように、このまま小中学校の先生になっていいんだろうか。自分がやってきた学問は何のためだったのだろうかと自問し始めたのです。
父は長い闘病生活を経て、私が小学校六年生の時に亡くなりました。以後、貧しい生活環境の中、母が懸命に働き、五人の兄弟を守り育ててくれました。
(中略)
そのように、私が学問を続けられたのは母や兄たちの応援、近所の方々の応援、そして社会からの応援があったのです。そうまでして自分が学んできたのは何のためだったのか。普通の中学校や小学校の先生になることなのだろうか。いま一番勉強を求めている人たちは誰なのか・・・自問を繰り返した結果、今学びたいと思っているのは、いま教育を最も必要としているのは、犯罪に手を染めてしまった青少年ではないか、という結論に行き着きました。」

角谷先生は、決断すると、法務省人事課に電話を入れ、試験にもパスして赴任がきまりました。赴任前の挨拶に行くため、スキー客で込み合う鈍行列車に乗り、雪が舞う諏訪湖を見ながら彼は決意します。

「僕は一生この仕事を続けよう。この仕事を天職にしよう。天職というものは与えられるものではなく、自分で築き上げていくものだから―。」

数十年、ある仕事一筋にやってきて、これが私の天職でした、といえる人はいるかもしれません。しかし、決して多くはないでしょう。ましてや、これから職に就こうという人が、「この仕事を天職にしよう」と思える仕事に出会える確率は、大変低いのではないかと思います。角谷先生は、とても幸せな方だと思います。
私もせめて職を辞す時くらいは、自信を持って「天職でした」と言えるよう、一つ一つ努力を重ねていきたいと思います。

桐分校の生徒たちは年齢も学力も本当にまちまちです。 九九ができない人。1年生の漢字どころかひらがなも書けないひと。 そんな彼らに、角谷先生は四月最初の授業で、教科書、ノート、筆記用具手渡す時に、こう言葉を添えるそうです。

「教科書を開いてにおいをかいでみてください。これが教科書のにおいです。この教科書は、字が読めない人がつくったのかもしれません。一日も学校に行くことができなかった人がインクにまみれて印刷したのかもしれません。皆さんはきょうからここで勉強ができます。一年間、ボロボロになるまで勉強してください。」

このように言葉を添えた後、彼は入学プレゼントを上げるのですが、赤飯やケーキではありません。それは、相田みつをの「いのちの根」という詩です。

いのちの根

なみだをこらえて
かなしみにたえるとき
ぐちをいわずに くるしみにたえるとき
いいわけをしないで
だまって批判にたえるとき
いかりをおさえて
じっと屈辱にたえるとき
あなたの眼のいろが
ふかくなり
いのちの根が
ふかくなる

こんな最高のプレゼントをもらえる生徒は幸せだと思います。この詩が読めるようになり、繰り返し読むうち、きっと生徒たちは先生の「心」に触れ、涙したはずです。 彼は言います。

『入学前のオリエンテーションの作文で、一時間かけて一行だけ書いた生徒もいました。 「私はじがよめるようになりたいどりょくしてでまきょうがんばりまし(原文ママ)(努力して勉強頑張ります)」 これは彼の切実な思いです。勉強したいという思いでいっぱいです。しかし、それを表現できないもどかしさもいっぱいです。 そこから一つひとつ覚え、一つひとつ自分の思いを伝えていく。決して一足飛びにはいきません。しかし、学ぶ喜び、知る喜びという、これまでの人生で知り得なかった喜びを感じ、四月には「いかつい」様子だった彼らも次第に変わっていきます。かわいらしく感じられてくるのです。』

ある受刑者の生徒の話です。

『ある生徒は、梅雨が明ける頃、「ここに自分の気持ちが書いてあります。」と言って一冊のノートを差し出してきました。ページを捲ると、そこには、「もう限界です。元の施設に戻りたいのですが、先生どうしたらいいでしょうか。」と書いてありました。つまり、退学を申し出てきたのです。

彼は読み書きが苦手で、その上持病の腰痛を抱えていました。それがわかるだけに私はどのようにして翻意させるべきか、一日半頭を悩ませました。
叱咤すべきか、激励すべきか、それともじっくりと話に耳を傾けるべきか・・・・
様子が気になって、体育の時間にグランドに出てみると、クラスメイトがソフトボールをしている中、力なくしゃがみこんでいました。それを見て私は思わず、「こらー、なにやっているんだ!グローブを持って守備につきなさい!」と大声を出しました。彼は慌ててグローブを掴むと、外野の守備につきました。私もグローブを取りに走り、彼らの輪の中に入って、一緒に白球を追いかけました。

その日、彼のノートに「腰の痛みが大変つらいことは分かります。しかし、元の施設に戻ってもその痛みが変わるわけではありません。三月まで大変だが頑張ってください。つらいからこそ頑張りましょう」と書いて戻しました。 翌日、彼はノートを返してきました。ああ、昨日の応対は失敗だったかもしれない。そう思ってノートを開くと、「先生の言うとおりです。三月の卒業式まで泣きません。つまらないしんぱいをかけました」とあります。私は胸をなでおろしました。

それから数日後のことです。彼の様子を見ていると、「おや?」と思うことがありました。
いつもひょいっと左手を見ているのです。トイレから出てきた時、ソフトボールで守備につく時、掃除時間の時・・・。
ある時、後ろから覗きこむと、左手の人差し指、中指、薬指に一文字ずつ文字が書いてありました。彼は毎日三つの漢字を覚えることを自分に課したのでした。
「先生、僕はほとんどの文字を読めるようになりました。」
卒業式の日、彼はそう言いました。そして、「これでもう損をしなくて済む」と。

聞けば彼は、それまで電車で移動するのに、駅に行っても文字が読めないから、いくらの切符を買っていいのかわからなかったといいます。だからどこへ行くにも遠くまでの切符を買い、いつも損をしていたというのです。 「これからはそんなことはない。漢字を随分読めるようになりましたから」
かれは嬉しそうにそう言って、社会へと旅立って行きました。』

(以上、月刊誌「到知」6月号より抜粋)

受刑者たちの多くは社会の底辺で苦労してきた人たちです。

皆が皆犯罪を犯すべくして犯した人達ではありません。幼くして両親と死別し、親戚を転々とし、それでも居場所がなく、施設で育った人。子供の頃両親が離婚し、親戚の家を転々とし、その期間が3ケ月と短いこともあり、とうとう就学の機会がないまま、働きに出たものの読み書きができないため、仕事がうまくいかず犯罪に手を染めてしまったもの。
いじめが原因で小学校のころから不登校になり、とうとう学校には行かず、そのまま成人になり、犯罪に手を染めてしまったもの。Etc・・・

こうした経験を持つ受刑者たちは、総じて犯罪者独特の険しい顔をしています。その「顔」が「学び」とともに変わっていくのです。勉強についていけず、何度も元の施設に戻りたいという受刑者たちを、教官が励ましながら、学んでいくにつれ、やがて彼らの顔が穏やかなものに変化をしていくのです。
学ぶ喜び、知る喜びが「いかつい顔」を変えていくのです。
ある受刑者は、桐分校を卒業する時こう感想を書き残しています。
「学ぶことが一番楽しかった。学びに変わるものはない。」と・・・

「ひとつ学べばひとつ世界が広くなる。ふたつ覚えればふたつ世界が広くなる。
こう考えると、学ぶことは人間として一生の仕事だと思えてくる。人間は生涯、勉強が必要です。」わずか一年の桐分校の生活で、学びはかれを哲学者に変えてしまいました。

皆さんは何のために勉強していますか?
お母さんが勉強しなさいとうるさいから?自分のプライドが許さないから?
志望する学校に入りたいから?あこがれの先輩と同じユニフォームに袖を通したいから?
就きたい職業があるから、その学部を持つ大学に入るため?
いろんな理由があると思います。それぞれの学びたい理由は大事にしてください。

でも、受刑者たちは、どんなに学んでも「いい大学」に行くことはないのです。 それでも、学びは彼らにとって、「感動」を享受できる素晴らしい機会なのです。
私は思います。受刑者の「顔」の変化がヒントを与えてくれていると。
人間は、「人間の形」をして生まれてくるから「人間」なのではありません。人間らしくなろうとして初めて「人間」になるのです。
なぜ学ぶのか。それは、「人間」がより「人間」らしくなるためだと・・・・

(2011.5.17~2011.5.31)