~学ばざれば道を知らず~

 今日からサマーセミナーで山梨県西湖に来ています。
第3回はここ西湖からお届けします。
セミナーでも受験生以外の学年に「論語特別講座」を担当することになりました。少しでも「夢を持つことの大切さ」「努力することはカッコイイこと」「学ぶことの意味」を感じて貰えればと思います。この様子は別の機会に書こうと思います

さて、私の郷里は名古屋の都市部にありましたが、それでもまだまだ戦争の爪痕があちこちに残っていました。大好きな遊び場は、高射砲陣地の跡地でした。戦後20年近く経過していましたが、ここはまだトーチカのコンクリート台の跡が残っていて、背丈ほどの雑草で覆われていました。われわれ「悪童たち」には格好の秘密の遊び場所だったのです。
生活レベルは決して豊かとは言えませんでしたが、日本全体が「戦後」からの復興を目指し、モーレツな勢いで経済成長を遂げているまさに「高度成長期」に青春を過ごしました。
その成長のシンボルである東京オリンピックを中学生で見ることになりますが、「これで日本もやっと世界から認められるようになった」という世の中の高揚感が、私にも伝わってきたことを覚えています。
東京オリンピックから48年。ロンドンオリンピックも終了。世界と戦った日本の若者たちの口から「感謝」の言葉が出てくるのを聞き、「日本もまだ捨てたものではないな」と感じつつ、ナショナリズムを高ぶらせた17日間でした。外国のメダリストの口から、家族やコーチ以外の人への「感謝」の言葉は聞いたことがないとレポーターが言っていました。東日本大震災の時に続き、日本人の優れた特質を感じたのは私一人だけではないような気がします。
スポーツであろうと勉強であろうと成長するために不可欠な要素。それは「素直な心」と「感謝の気持ち」なのです。

では、本題の教育の話に戻りましょう
私たちの親世代は、ほとんどが大正生まれで、「学士様」といえばそれだけで尊敬を集めることができたようです。その戦前世代の一番の望みは、自分たちが叶えられなかった「大学」に入れ、やがて来るであろう「豊かさ」を享受するための「資格」を子供たちに与えることでした。
国民の教育熱は盛んでしたが、当時「塾」といえば、「ソロバン塾」くらい。勉強しに塾に行くといえば、「勉強ができないから行く」と思われるような時代でした。
中学入試をする生徒は、クラスにはいませんでした。そもそも中学入試なるものが存在することすら知りませんでした。
高校受験は、われわれが最後の年でしたが、公立高はなんと「9教科入試」。必然的に暗記型の入試でした。「頭がいい」というのは、「記憶力がいい」とほぼ同義だったような気がします。昨今はやりのPISA型問題とは、大きな違いがありました。
大学も国立大は1期校、2期校の時代でした。文系といえども理科は2科目選択でした。また 数学は、数ⅡBまで必修。私は文系志望にもかかわらず、愚かにも数Ⅲまで選択して、1時限目でチンプンカンプン。数学の才能の無さを自覚させられたことを覚えています。
「共通一次」もまだ始まっておらず、旧帝大をトップ層とする大学の序列化が予備校で叫ばれていました。
「受験戦争」という言葉がマスコミで批判的に使われ始めた頃でした
つづく

(2012.08.13)