~サル化する子供たち~

あけましておめでとうございます。今年もファインズ・グループをよろしくお願いします。

一昨年の「リーマンショック」をきっかけにしたいわゆる金融不況は、今年になっても収まる気配もなく、かえって「デフレ不況」が今後も続くという暗い予想で2010年の幕があけました。 しかし、このような時期だからこそ夢を失わず「目線」を高く持って頑張っていくことが大事ではないでしょうか。

さて、1年単位で子供たちを教えていると見過ごすことも、10年、20年単位で子供たちをみると「ある変化」に気がつくことがあります。
そこで、今回はここ数年気になっている「ある変化」を取り上げてみます。
「ゆとり教育」の影響か、大学生でも四則計算のうち、掛け算・割り算を先に処理するということさえ知らないというショッキングな記事が出ていました(読売新聞1月5日付朝刊)。
今やそういう記事が当たり前のようになったという点で、日本の教育事情は危機的な状況にあると言わざるをえません。

こうした学力上の問題は別の機会に取り上げることにして、今回は精神的自立の問題について書いてみたいと思います。
「親離れ」の時期が一昔前と比べて大変遅くなっています。「引きこもり」「オタク化」「社会性の欠如」等々の子供たちの問題行動の根底には、こうした「親離れ」の問題が実は潜んでいるのではないかとう気がしています。

母子密着型の子育て国 日本

欧米では乳幼児から両親とは別室で眠るのが一般慣習ですが、日本は小学生の中学年―ひょっとすると高学年になるまで―両親と同室で眠るのが一般的のようです。

「川の字になって寝る親子」-それは古き良き日本の家族の原風景を表しています。
日本の子供の数が多かった時代は、この「添い寝」の欠点も目立ちませんでした。
次々に「弟」「妹」が生まれますから、「添い寝」の特権(定位置)は「彼ら」にすぐ奪われてしまいます。従って、大きくなるまで母親の愛情を独占し、浸り続けることは多くの場合できなかったのです。

ところが、昨今のように「一人っ子」の割合が圧倒的になると、必然的に母親の独占時間―添い寝の時間―は長くなり、「母子密着」の期間は長くなります。

つまり、添い寝の時期が高い年齢になるまで延長してきているのです。
(参考文献:正高信男『ケータイを持ったサル』)

日本の添い寝の時間は、アフリカ狩猟民やサルに近いといいますから、日本は霊長類本来の育児に即しているといえば言えないこともなさそうです。
しかし、私はここで日本と欧米の子育ての優劣を取り上げるつもりはありません。

子育ての方法はいわゆる「文化」の範疇ですから、ただ事実としての「差異」があるだけで「どちらが優れている」という問題ではないからです。

ただ、こうした「母子密着型」の居心地良さを長く体験した日本の子供たちが、「社会性」をどうやって身につけ「自立」していくのか。はたして「自立」できるのか。

この社会性について、「サル社会」での面白い事例があります。

ニホンザルの母子社会では、群れの中での「順位の高いメスザル」と「順位の低いメスザル」とを比較すると、 母子密着の状態は順位の高いサルの母子に典型的に認められるそうです。

順位の高いサルは、安定的にエサの調達ができるが、低いサルは採食の順番が回ってくるのが遅いことや、 他のサルの毛づくろいや機嫌をとったりする余計な時間を社交に費やさねばならないため、子育てばかりに時間を割くことができないからだそうです。

したがって、必然的に順位の低いサルの子供は、高順位のサルの子に比較すると「放置」されることが多くなります。
このこと自体、低順位のサルの子にとって短期的には気の毒なことかもしれません。しかし、長い目で見ると結果は異なります。
ニホンザルの思春期にあたる4~5歳のとき、高低のサルの子の「社交性」を比較すると「低順位のサルの子」の方がはるかに社会性が高いのです。

つまり、高順位のサルは、母親が何不自由なく子供と接することができ、密着した状態で養育を行ったため、子供が社会性を身につける時間を奪ってしまったからでしょう。
これと似たようなことが、昨今の日本の親子関係に認められるのでないかと思われます。

前回までの「母子密着」に関連して、乳幼児に親が子とコミュニケーションを持つとき日本の特徴が現れる事例があります。

親が子に働きかけをする場合を、「声」による場合と声以外の「スキンシップ」に分け、さらに「声」による場合を「言語的」なものと「非言語的」なものに分類し、日本、アメリカ、アフリカ狩猟民の母親が、満1歳未満の自分の子供に対し、どのような働きかけを1時間あたりどれほど行ったかを調査した興味ある資料があります。 その結果、3者に顕著な相違があることがわかりました。

つまり、アメリカの母親は「言語的」な接触が大部分を占めますが、日本とアフリカでは「言語以外」のスキンシップの割合が多く、また声を使う場合でも言語的でないケースの割合が高いのです。(以上、正高信男「ケータイを持ったサル」より)

われわれ日本人は、よく乳児が発する「マンマ、マンマ」「バブ、バブ」等の意味不明な発生に対し、おうむ返しに応答をすることがありますが、これが「非言語的音声」です。
欧米ではこうした習慣はあまりみられず、相手が子供であっても大人とほとんど同じようなことば使いで対応するそうです。そういう意味では、日本の親は「ことば」で物事を伝え、教えるという意識が希薄であるといえるでしょう。

前述した「母子密着の時間」とこの「子への働き方」の二つの事例からいえることは、
日本やアフリカの子育ては、人類学的に言えばむしろ多数派に属し、欧米の「個人主義」的親子感のほうがむしろ例外に属するとはいえ、「子供の自立」という点では問題があるということです。

日本の「母子密着」の在り方に問題があるとして、ではどのようにしたら「子供の自立」を本来あるべき時期に達成することができるのでしょうか。
私は「受験」というものを「自立」という観点からとらえなおしてみる必要があるのではないかと思っており、機会あるごとに保護者の方に訴えてきました。

団塊の世代、及びその子弟である「第2次ベビーブーム」が受験世代にあった高度成長時代は、同時に「受験戦争」と言われた「競争社会」でした。
そして、この産業界も含めた「競争」が国民の資質を上げ、経済成長を支える原動力になり、国民の9割が「中流意識」を持ち、「治安もよい」という世界史の中でも非常にもまれな国家をわが先輩たちは作り上げてきたのです。それ自体は誇っていいことです。

そうした中、国民の多くが流れに乗り遅れまいと一元化した価値である「有名高校―有名大学―一流会社就職」「親の生涯獲得賃金を超える中流生活の獲得」を目指すなかで「受験」はヒートアップして行きました。
そして、やや遅れて、「荒れる学校」「非行化」「精神の荒廃」「落ちこぼれ」等が問題にされるようになり、やがて「教育制度」の見直しが始まりました。

入試の緩和を目的に、大学受験は、1期2期校の廃止、共通1次、センター試験への移行、入試科目の削減、AO入試の採用拡大等々。高校入試は、エリート校をなくすことを目的とした学区制の廃止、入試科目の軽減等が全国的に実施されていきました。
カリキュラム的にも「ゆとり教育」の名のもとに、科学的根拠もない「虫食い的」な単元の削減がなされました。
ところが、この「ゆとり教育」が「学力の低下」をもたらし、10年を経たずして見直しとなったことは周知の通りです。

「受験」は本当に子供たちの精神をゆがめる「悪しき存在」なのでしょうか?

今日2月1日は中学入試の「天王山」。
これから受験生となるお子さんを抱えるご父母の方に、「受験させる意味」をこの機会に考えていただきたいのです。

「受験」は本当に子供たちの精神をゆがめる「悪しき存在」なのかを考える際に参考とすべきデータがあります。例えば、昭和54年(1979年)と平成10年(1998年) の中学生の授業理解度のデータを見ると、「教科書の内容が難しすぎてついていけない科目がある」と答えた生徒は、平成10年の方が上回っているのです。

また、勉強時間についても、昭和24年(1949)の中学生のほうが、平成12年の中学生より学校外での勉強時間は長いという結果がでています。
少年非行についても、「受験戦争」がもっとも激しかった昭和40年(1965年)から52年(1977年)までは減少傾向にあるにもかかわらず、教育改革が始まった53年ころから急増しているのです。(参照:苅谷剛彦東大助教授のデータより)

これらのデータは一体何を示唆しているのでしょうか。私は一律的な「詰め込み教育」や「偏差値重視の受験指導」等教育に携わるものに反省すべき点は多々あると思います。

しかし、「勉強」することそれ自体が「悪」ではないはずです。
「受験勉強」もしかりです。目標を持って、勉強し自己を高めていくという資質は、人間を他の哺乳動物と区別する唯一の特質であると言っても過言でないかもしれません。 鉱物資源のない日本にとって、唯一の「資源」は人間なのです。その人間を「資産」としての「人財」に育成するのが「教育」のはずです。

現代の日本において「受験」は、子供たちが「公平」で「自己実現」「自主自立」を確立できる数少ない機会といってもいいでしょう。
「母子密着」により「自立」できない子供たちが激増している昨今の状況を考えるなら、「受験」は「自立」を図る良い機会となるはずです。

私は幼稚園のお子さんをお持ちのお母さん方に講演する際、「お子さんがお腹の中にいたとき、お子さんがどのように生まれ、どんな大人になってもらいたいと思っていたか、3つ書いてください」とお願いしています。
すると全員の方が「五体満足で生まれてきてほしい」「元気で明るい子供になってほしい」「世の中の役に立つ大人になってもらいたい」等々と書いています。中には「障害がたとえあってもわが子として胸に抱きたい」と書いておられたお母さんもいました。

「東大に受からせたい」「偏差値60以上の学校に行かせたい」「夫以上の年収を稼いでもらいたい」と書いている母親は一人もいないのです。
「子育てに迷ったとき、この原点にもどってみたらいかがでしょうか」と提案すると、涙を流しておられるお母さんも少なくありません。

大人の役割は、「何のため」を教えることだと思います。

「何のために勉強するのか」。この「何のため」という目標が高ければ、子供は「道」に迷うことはありません。たとえ一時的に迷っても、またあるべき「道」に戻ることができます。

どこかで「子離れ」をしなければならないなら、「受験」を「自立」のチャンスととらえてみてはいかがでしょうか。

「かわいい子には旅をさせろ」と先達も言っているのですから。

(2010.1.05~2010.02.08)