その日は夕食の後、インストラクターに案内されて宿舎を出発し、夜の森を抜けて近隣の牧草地までおよそ一時間程度のハイキングをする予定でした。が、朝からあいにくの雨模様で、ナイトハイクはその開催すら危ぶまれたのでした。

 暇を見つけては空模様を確かめるスタッフをあざ笑うかのように、2階のテラスからは宿舎周辺のクローバーの群落と、その向こうに広がる森を蔽(おお)い隠すほどに深い霧のような雨が見えるばかりでした。

 ところが、半ば諦めかけた夕食後、一体誰の粋な計らいか一転して雨は止む気配を見せ始め、ついに希望者のみという条件付きながらナイトハイクは決行の運びとなったのです。

 まずは教室で30分程スライドを使った事前学習会です。そこでKeep自然学校を中心とする清里の四季折々の自然に関するレクチャーがあって、狐や鹿、天然記念物であるヤマネの生態などが紹介されていきます。清里に住んでかれこれ四年になるというインストラクターは、時間さえあれば野山を巡って動植物の営みを観察するアウトドアの申し子のような女性です。例えば雪の上に動物の足跡を見つけた時などは感動のあまり身動きさえとれなくなるほどだと、自らの清里という自然に寄せる思いのたけを語ってくれました。その彼女が宝物だといって見せてくれたのは春先に森の中で拾った二本の立派な牡鹿の角。牡鹿の角は春先に生え変わるのだそうです。

 さて、大切なレクチャーを終えたぼくらは、いよいよ玄関前に集合し、ナイトハイクに出発です。宿舎を出発した一行は、まずクローバーの草原に踏み込み、夜間はすっかり葉を閉じて眠るというクローバーの生態を紹介されました。懐中電灯をつけて生徒たちの足元を照らすと、初めて見る、葉を閉じたクローバーの見慣れぬ姿に小さな歓声が上がります。しゃがみこんで手を触れてみる生徒もいて、単純なようですが、それですっかりナイトハイクの世界に入り込んでしまったのです。見事な掴(つか)みだと感心していると、おもむろに彼女が話し始めます。

「みなさん、ひとつ聞いて欲しいことがあります。これから私たちが入っていく世界は、本来人間の住む世界ではありません。野生の動植物が暮らす世界なのです。今晩私たちは、そこへほんのちょっとお邪魔させてもらうのだということを忘れないで欲しいのです」

 なんだかしっかり授業のようになっていることに笑みがもれます。

 それから懐中電灯を消して、足元も危うい真っ暗な細道を、彼女の後をついて一列になって進みます。そうして森を抜けたところが牧草地になっているらしく、少しずつ闇に慣れてきた目にがらんと開けた空間が感じられます。その辺りは夜間ともなれば野生の鹿や狐や兎などが出没するポイントであるらしく、懐中電灯の明かりをぐるりと回すと運がよければ闇の中に動物たちの眼が光って見えるという話でしたが、この晩は雨上がりの深い霧が立ち込めていて、残念ながら出会うことはかないませんでした。

興味深かったのは、動物たちの光る眼の色の話です。「赤いきつねと緑のたぬき」といえばカップ麺のタイトルですが、実際にキツネの目は赤く光り、タヌキの目は緑色に光るのだそうです。気になって「鹿の目は?」と尋ねると「白く光ります」とのこと。また、光る目の高さ(体高)によってもどの程度の大きさの動物であるかは判断できるということでした。

 少しばかり落胆する生徒たちを励ますように、彼女は森陰の木に絡みつく蔓性の植物を山葡萄だと紹介してくれました。今は実こそ成っていないものの、葉っぱを噛むと山葡萄の味がするのだといって幾枚かの葉を採って生徒たちに配ってくれます。ぼくも早速一切れを分けてもらって噛んでみたところ、青臭い植物の味に混じって確かに葡萄の後味に似たかすかな酸味がしました。

 それからぼくらは人工の光がまったく届かない森陰まで移動して、そこでひとつの実験を試みました。

 言われるままに片目をすっかり閉じて、彼女のかざすサーチライトの灯りを3分ほど見つめます。30人近い生徒たちもすっかり彼女の演出する世界に入り込んでいるようで、物音ひとつ立てずに実験に参加しています。やがてサーチライトが消されると彼女の合図と共にぼくらは片目ずつ交互に開いて闇の中の景色を見つめます。サーチライトを見つめていた方の眼には黒いばかりの風景が、そしてつぶっていた方の眼にはぼんやりと白い景色が交互に映し出されて幻想的です。

 「ではみなさん、すっかり目を閉じて、しばらくの間、聞こえてくるあらゆる音に耳を澄ましてみてください。心を静かに落ち着けて限りなく耳を澄ますと普段私たちには聞き取れないほどの音までが聞こえてくるはずです」

 半信半疑の生徒たちも、言われるままに瞳を閉じて、何やら神妙に息を潜めます。すると先ほどから一様に聞こえていた虫の声が、突然のように表情を持ち始めたのです。様々な種類の虫の声。それもがらんと広がった牧草地のそこここで、遠い声は遠く、近い声は近くはっきりと聞き分けられていくのです。その後に来たのが自分自身を含めた参加者の緩やかな呼吸の音。やがて時折森を渡る風の音に混じって、さわさわと流れてくる霧の音まで聞こえるようです。大きな大きな自然の中で、今、わずか30人程のぼくらが肩を寄せ合って、頬をなでていく柔らかなミルク色の夜の霧に包まれています。もしかしたら草原のそこかしこで野生の動物たちが、突然の闖入者(ちんにゅうしゃ)であるぼくらの気配をうかがっているかもしれません。

 その時、シンと研ぎ澄まされた心の耳に、広葉樹の葉の上に落ちる何かの音がはっきりと聞こえたのです。その音に向かって心の感度を上げていくと、確かにそれは雫の音のようです。と、そう思う間もなく草原の土にしみこみ森の木々を叩く雨脚の音が近付いてきました。もしかしたらぼくらは、自然と溶け合って研ぎ澄まされたその感性によって、遠い空から落ちてくる雨滴の、その最初の雫の音を聞き取ったのかもしれません。

 残念ながら、それを合図にナイトハイクは切り上げとなり、宿舎に舞い戻ることになってしまいましたが、正直なところ、あの、命が限りなく研ぎ澄まされて、自然と、もしくは闇と一体化していくような不思議な感覚を、もうしばらくの間味わっていたかったぼくです。

文責:石井

※残念ながら、ここ3年は新型感染症の影響でサマーセミナー(宿泊合宿)を行っていません。