国立にある某塾でのかつてのできごとです。
徐々に成績を上げ、クラス変えでひとつ上のクラスへと移って、担当を離れてしまった小学校5年生の女の子が、しばらく経ったある日の授業後に、職員室のぼくを訪ねてきました。
「今日で塾をやめることになったの」と彼女。
驚いたぼくは理由も分からないまま、それでも瞬時に頭を働かせて何とか彼女がやめずに済む方策がないものかと考え巡らしました。が、今は直接担当しているわけでもないぼくのところへ、相談ではなく報告にきたことが、家族ともさんざん話し合った末の最終結論を意味していることに思い至って、ぼくはいたずらに彼女の心をかき乱す愚を犯すまいと、静かに「そうか、残念だよ」と応えました。それから仕事の手を止めて彼女を送るべく、並んで玄関に向かったのです。その、時間にしてわずか30秒程の間に、ぼくは滅多にない勤勉さで頭を働かせて、彼女に贈るべき言葉を精一杯紡ぎ出しました。そして、玄関で、真っ直ぐにぼくに向き直った彼女に右手を差し出して、軽く握手した後で、ぼくは「でもね、きっと、また、会えると思うよ」と静かに、けれども真っ直ぐな気持ちでそう言ったのです。すると彼女は瞳を輝かせて大きく頷いた後で「うん、きっと、私もそう思う」と言ったのでした。その彼女の言葉と笑顔はとてもステキで、ぼくは心の中で文句なく合格点をあげたのでした。
その大切な約束を忘れたことはありませんでした。もちろん、ぼくは彼女との再会を信じ続けていたのです。彼女の歓心を買うための、その場しのぎで守られることのない約束をしたつもりなど、これっぽちもありませんでした。約束した以上、もし彼女との再会がかなわなかったとしたら、それは彼女の気持ちを裏切ることにもなり、ぼくはぼく自身にすっかり失望しかねない崖っぷちの状態です。そうでなければ、約束など初めからしなければ良いのですから。
で、それから一年半。
その当時、国立を中心に5つの校舎を掛け持っていたぼくが、国立校での授業に向かうべく国分寺の下り中央線ホームに下りて、読みかけの文庫本のページを開きかけたときでした。後ろからぼくを追い越して、わずかに5メートル先で立ち止まった制服姿の女子中学生の存在が、どういうわけか気に掛かって視線をあげたぼくは、とうとうその約束の少女を見つけたのです。目を丸くして驚く彼女の元に駆け寄り、「やっと会えたね」と言ったぼくの言葉に、クスッと笑いを返した彼女は喜ぶというのとは微妙に違う表情で「良かった」としみじみ言ったのでした。
「ずっと、会えると信じてはいたけれど、ほんと、良かったよ」と応えたぼくの心を満たしていたのもやはり「喜び」の気持ちではなく、彼女を裏切らずに済んだということ、そして自分自身に失望せずに済んだということに対する「安堵」の気持ちでした。
それから国立までのわずか二駅の間、久しぶりのぼくらは言葉を選び選び、ささやかに語り合ったのでした。そうして仕事に向かうぼくと帰宅する彼女は駅前のバス停で手を振って別れました。
そして、その別れ際の彼女の「じゃ、また」という言葉に、またしてもぼくは、文句なく合格点をあげたのでした。
文責:石井