『なごり雪』という時代を超えて歌い継がれる名曲をご存じでしょうか。
「なごり雪」という言葉には二つの意味があって、ひとつは「北国で春になっても消え残っている雪」そしてもうひとつが「春になっての季節外れの雪降り」。名曲『なごり雪』は後者を歌ったものです。

思わぬ雪となった3月22日はまるで冬に逆戻りしたような寒さでしたが、春分の日を過ぎての雪降りですので「なごり雪」と呼べるでしょう。

「季節外れの雪」で思い出すのは、21世紀最初の年、2001年。あの年、4月を待たずに満開となった久米川通りの桜は、けれども桜特有の内に秘めた熱情のようなものが感じられず、代わりに少し青ざめて見える表情の向こう側に、まるで熟す前の果実のような誠実であるが故の凛々しさと、そして何故か哀しみとが感じられたのでした。
そこへ季節外れの「雪」。久米川では桜の花びらよりも大きな牡丹雪が、羽根飾りのように音もなく降りしきり、そして、ぼくはあっさりと納得したのです。折角の桜がそんなにも青ざめて見えたのは、弥生の空を最後に飾る、そんな雪を予定していたからだったのだと。
「思いがけず降り出した雪に『なごり雪』のメロディーが鳴り止まないぼくです。」
歓喜のあまり、そんなメールを思いつく友人に片っ端から送りつけました。PHSから携帯に替えて間もない頃だったからでしょうか、送り主のわからないそんなメールに友人の一人が「だれ?」と返事を寄越して、初めて自分の失態を理解したのです。慌てて「石井です(^^;)」と返信したところ、「そうだろうと思った(^^)」と、あっさり見抜かれていたことに苦笑いしたぼくでした。

さて、名曲『なごり雪』ですが、「汽車を待つ君の横で」ぼくはしきりに「時計を気にして」います。「ぼく」が確認していたのは、「君」と歩いた青春の幕が下りる瞬間までのカウントダウン。そんな二人を包むように折しも「季節外れの雪」が降りしきります。
「東京で見る雪はこれが最後ね」「君」がポツリとつぶやきます。「東京で見る雪は」と限定していることから推測すると、この女性が帰る故郷は雪が降ることのある場所だと判断できます。もちろん歌の舞台は東京で、時計を気にしながら「汽車を待つ」のですから、この駅はどうやら始発駅ではなさそうです。2番の冒頭で「動き始めた汽車の窓に顔をつけて」君は何か言おうとします。つまり、この汽車は窓の開かない特急列車なのでしょう。大切な最後の言葉を伝えるのに、開くはずの窓を開けないなどということは考えられません。「ぼく」はといえば、「君の唇が『さようなら』と動くことが怖くて」目を逸らし、下を向いてしまいます。
ここまでを整理してみると、舞台設定は「桜も咲きそろった弥生の空に思いがけず降りしきるなごり雪の日、特急列車が止まる、始発駅ではない東京のどこかの駅で、学生時代を共に歩んだ主人公とその恋人が、卒業を境に別々の道を歩き始める」といったところでしょうか。
物好きはいて、この歌が発表された当時の時刻表を調べて、該当するのは中央本線の「八王子」しかないとうことを突き止めます。だとすれば、彼女の帰る故郷は、信州のどこか山がかった場所ということになります。
実際のところは架空の舞台であったとしても、こんな風に考えると、手触りというか、この歌の心象風景がほんの少し輪郭を深めるようで面白いではありませんか。
「今、春が来て、君はきれいになった」「去年よりずっときれいになった」
別れに際して「ぼく」が抱く最後の感想です。
そして「君」は去り、ホームに残された「ぼく」は、「落ちては解ける雪」を一人見つめ続けるのです。

さてさて、進学塾などという場所(に限った話ではありませんが)で働いていると、毎年毎年、春はいやでも出会いと別れの季節となります。過ぎ去ろうとする季節と訪れようとする季節、その激しい季節の交換の狭間で、喜びとほんの少しの悲しみが交差して、一層切なさをかき立てます。
そんな時、いつも思い出し口ずさむのはこの歌なのです。だから、ぼくはこの歌に込められた哀しみと、それを大きく包み込んでいる不思議な明るい空間のわけが、何となく理解できるような気がしているのです。

 

文責:石井