昔、ある知人とした議論の話です。
ぼくは、これまでの人生を通して、初対面の人でも特別な先入観がない限り好きになれたらいいと思うし、まずは信じるところからスタートするという癖(くせ)がいつの間にかついてしまったのです。それはもう「生き方」の問題であって理屈ではありません。けれどもその友人は、初対面の相手なら表面上は笑顔を繕(つくろ)っても、まず警戒し疑ってかかるというのです。
二人で長い時間話し合ってみた結果、彼の考え方はそれなりに合理的で現実的であることがわかりました。もっとも、合理的で現実的なものの見方・考え方にぼくが価値を認めるかどうかは別の話です。
彼の言い分によればこうです。もし仮に初対面のその人が予想通り信用できない相手だと判明したとき、初めから疑ってかかった彼は「やっぱり」と納得はするけれども、そのことで傷付くことはありません。逆に予想が外れて相手が信用に値する人物だった場合には、予想を裏切られた落差も手伝って、とても得をした気分になる<らしい>のです。一方、信じて裏切られれば傷付くし、裏切られなかったとしてもそれで喜びが増すこともないのだから、疑ってかかるに越したことはないというわけです。
初めに書いた通りぼくに理屈があるわけではありませんでしたが、折角だからと反論を試みることにしました。
彼が言うように、仮に自分が傷付きたくない気持ちを出発点にしたとしても、ぼくはやはり人を信じてかかることを選びます。何故なら、裏切られてできた心の傷よりも、人を信じることができない哀しい自分自身の姿に傷付くことの方が、ぼくにはよっぽど堪えるに違いないし、それはもしかしたら致命的な傷となりうるからです。さらには、そんなふうに始まった人との交わりが、互いを心から信頼しあう掛け替えのないものになりうる保証がないからです。それに、裏切られてできた心の傷なら、その間に心を通わせることのできたたくさんのステキな仲間たちとの時間がいつだって簡単に癒(いや)してくれるではありませんか。
もちろん生き方は人それぞれだから、あえて決着をつけるべき問題ではないかもしれません。ただ、その時初めてそんな思いを言葉にしたことで、ぼくは自分の生き方というか在り方が、少しだけはっきりと見えてきたような気がしたものでした。
蛇足だけれど、その友人の生活信条は「不言実行」なのだそうです。
そいつはいいぞ、と思ったら首尾一貫、言わずに実行すれば褒(ほ)められるし、仮に実行しなくても責められる道理がないからだと聞いて、なぜかがっかりした記憶があります。