『まだだ。まだぼくは若い。まだ走りつづける。できればこのまま老いぼれて倒れて死ぬまで、どこまでも、どこまでも。
いつまでも一緒にいよう—その夢は消えたけれども、そのかわり、ぼくも走る。信もヤスも、走っていれば、いつかきっとどこかで会えるにちがいない。』
『いつも、明日会うつもりで別れ、昨日別れたばかりのように会えたら最高だね。』
(栗本薫 『ぼくらの世界』あとがき)
久しぶりの休みだというのに、ここのところ働き詰めだった反動か、ドッと疲れが出て昼過ぎまで寝込んでしまいました。それで、少しは外の空気にでも触れようと、午後の街にブラブラと出かけてきたのです。古本屋で気に入った本を三冊買って、そんな些細(ささい)なことですっかり元気を取り戻して、それから馴染(なじ)みの喫茶店でユラユラと香り立つブラック珈琲を飲みました。そういえばいつ頃から砂糖の入らない苦い珈琲を飲むようになったのでしょう。まぁ、それも考えてみれば大したことではありませんね。言い訳がましく一言添えておくなら、それは何も健康を考えてのことではないのは確かです。
『ぼくらの時代』といえば栗本薫の江戸川乱歩賞受賞作品のタイトルですが、その小説の内容とは無関係に『ぼくらの時代』というその言葉が、ぼくの中にずっと居座って、いつの間にかぼく自身にとってもキーワードのようなものになってしまいました。
ところで、『ぼくらの時代』といったら一体いつ頃を指すのでしょう。大体、『ぼくら』の『ら』にしてからがあやふやで、ぼくを取り巻く様々な人間関係の一体どれを指して『ら』なのかってことがいきなり問題となるわけです。あるいはこれから訪れる季節こそが『ぼくらの時代』と呼ぶにふさわしいものであるかもしれないし……と、それでは後が続かないので、取り敢えず通り過ぎたいくつかの季節を振り返ってみることにしましょう。
通り過ぎ、失うということを、ぼくが初めて恐れた時代は間違いなく中学時代です。それはぼくの時間的視野が、過去や未来に渡って広がったことの必然だったのでしょうが、その季節を彩るステキな仲間たち(先生も生徒も含めて)の存在に因るところが大きかったことは疑いありません。「教師」になろうと決心したのは、そんな風にどうしようもなく通り過ぎていく季節の輝きの代償として、次の時代を生きる若い『ぼくら』の夢の片棒を担ごうという思いつきのせいだったのです。そして、そんな夢の通りに歩き始めたぼくを訪れた新しい季節……「高校時代」「学生時代」と、ぼく自身にとっての『ぼくらの時代』も色を変え形を変え、その時々にステキな仲間たちと出会いながら続いてきたのです。もちろん、それは「今この瞬間」にも確かに続いています。だから、中学時代に漠然と感じた哀しみや不安は幻だったと言い切るだけの自信が今はあります。
大切なことは、どの時代においても、生き生きと輝けること。それぞれの季節を、肩を並べて歩くステキな仲間たちを手に入れること。訪れるどんな季節であっても、『ぼくらの時代』と胸を張って言えるということ。今なら、そんな風に思えるぼくです。
— ここでかつての教え子二人の作文を紹介します。 —
『ぼくらの時代』 R.N
大きなボストンバッグを右手に持ち、左手に紙袋、背中に大きな「からくさ模様」のふろしき。今、私は旅立ちます。
……なぁんてカッコいい旅立ちはしません。右手に小さなふろしき一個。そっと旅立ちます。さぁ、これからが私たちの時代です。
でも、「私たちの時代」って、どんな時代? 考えてもわからないや…。平和かな? 戦争の時代かな? 戦争の時代にだけはなってほしくない。ううん、しない。そうだ、私たちは「しない」って言えるんだ。「私たちの時代」だもの。
戦争がなくて、今より便利にならなくていいからたくさんの緑がある。そんな時代にしたいな。
わがままは言わない。でも、この二つはどうしても私たちで守りましょう。
「未来」—-宇宙のように限りない空間。
そう、「未来」に「私たちの時代」があるのです。
『ぼくらの時代』 C.I
持ち物は切符だけ。他は何にもいらない。でも、これからの道のりは長い。だから靴のひもだけはしっかり結ぼう。靴ひもが切れると不吉だってよく言うから……。
きちんと身じたくして、ドアを開けて、思いっきり新鮮な朝の空気を、胸いっぱい吸いこもう! そして元気に歩こうよ。
たとえ道に迷っても「未来」が道案内してくれる。つまずいて転んでも、そんなの平気平気! 夜のあの暗闇に比べれば……。途中で疲れたら休めばいいじゃない。でも休んだあとは、また元気に歩こうね。もどらないかぎり、一歩一歩確実に近付いているんだから、「未来」に……。
もし、もどりたくなっても、それは絶対ダメ! その時はちょっと一休みしてもう一度考え直し。やっぱりもとへはもどれない。
あと少しで夜が明ける。これからの道も長いけれど、がんばって歩こう! 私たちの時代へ……。
どちらも12歳の作品です。授業中に書かせた沢山(たくさん)の作文の中から、ぼくが大切に取っておいたものの一部です。題名が同じなのは、テーマ作文であるからですが、これらの作品にはどこか人の心に届く輝きがあります。もしかしたらそれは、12歳という年齢の有する特殊な輝きであるかもしれませんが……。
「あの頃は自分の弱さにも気付かず、恐いもの知らずの天下無敵だった」と語ってくれたのはR.Nさんです。が、何も知らないなら知らないなりの、知れば知ったなりの輝き方があるとすれば、何かを失うことも、そして何かを手に入れることも恐れる必要はないに違いありません。「知らない」ことの、あるいは「知ってしまった」ことの、それぞれの脆さと強さの真ん中で、生き生きと悩み、生き生きと笑い、時には生き生きと怒る。それでいいのだ、と今更のように、彼女たちに教えられる気がします。
注:【アーカイブ】はあくまでも過去のひとりごとです。背景となる時代が異なりますので、時には違和感のある場合があるかもしれません。その点、ご理解ください。
文責:石井