今年で40歳を迎えようとする彼は、現在、筑波大学経済学部で准教授として後継の指導にあたり、若手の経済学者としても将来を期待されています。けれども、彼はいわゆるエリートでは決してなく、振り返ってみれば、10代の頃の彼の人生のほとんどが挑戦と失敗の繰り返しでした。彼にもし才能と呼べるものがあるとしたら、それは志を捨てないこと、決して心を折らないことです。

彼との出会いは、彼が11歳、小学校5年生の時までさかのぼります。成績は上々だったのですが、ツワモノぞろいだったその学年の中では特に目立つ存在ではなく、やがて6年生になっても3クラス体制の2クラスに所属する生徒だったのです。第一志望は桐朋中学、併願校は成城中学でした。彼と共に闘った2年間は瞬く間に過ぎ、1クラスからは開成中学2名、桜蔭中学1名、桐朋中学3名、巣鴨中学1名、立教女学院中学2名、立教池袋中学1名、おまけに鹿児島ラサール中学2名というような華々しい結果が出たものの、彼の受験は1勝1敗。目標だった桐朋中学には届かず、成城中学の合格を手に入れて終了しました。

ところが、自分の闘いに決して満足していなかった彼は、成城中学へは進学せず、地元の公立中学へ進学し、目標を高校受験にスイッチして、再び闘いの渦中へ身を投じていくことになります。

中学1年生になった彼は、そこは中学受験組の強みで、いきなり先頭集団の仲間入りです。最後まで2クラスに甘んじた中学受験のときとは違います。3年間を1クラスで闘い抜き、目標を早慶の附属高において、いよいよ彼の雪辱戦が始まります。

中学受験から3年。高校受験にステージを移した彼の真価が問われる2月が、再び訪れます。2月7日、慶応志木高校の受験を皮切りに彼の高校受験がスタートします。2月10日、中央大学附属高校の受験が終わった直後に慶応志木高校の受験に失敗したことを知った彼は、けれども、顔色ひとつ変えずに集中を切らすことなく、残る早稲田高等学院・慶応義塾高校の試験に立ち向かいました。

慶応志木高校・中央大学附属高校・早稲田高等学院・慶応義塾高校。都立受験を予定せず私立に絞った彼の高校受験は瞬く間に終了します。けれども、彼の手に残ったのは、中学受験と同様、残念ながら滑り止めとなる中央大学附属高校の合格だけだったのです。(つづく)

文責:石井

※2023年現在、彼は筑波大学から早稲田大学に席を移して後進を育てるべく教壇に立っています。