ここ国分寺の街でも、午後になって思いがけずささやかな雪降りとなりました(注:2023年ではありません)。こんな季節外れの雪を「名残り雪」と呼んだりします。

 覚えている人もいるかもしれませんが、21世紀の初めの年は、桜の咲きそろった3月も末の31日になって突然の大雪が降ったのでした。

 あの年、4月を待たずに満開となった久米川通りの桜は、けれども桜特有の、あの内に秘めた熱情のようなものが感じられず、代わりに少し青ざめて見えるその表情の向こうに、恐らくは誠実であるがゆえの凛々(りり)しさとどこか震えるような哀しみとが感じられたのです。それはまるで熟す前の果実のようでした。

 そこへ思いがけず季節外れの雪です。久米川では桜の花びらよりも大きな牡丹雪が、羽根飾りのように音もなく降りしきって、忘れかけていたぼくの童心にパッと灯りを点してくれました。そうして、ぼくはあっさりと納得したのです。折角の桜がそんなにも青ざめて見えたのは、弥生の空を最後に飾る、そんな雪を予定していたからだったのだと。

 「思いがけず降り出した雪に『なごり雪』のメロディーが鳴り止まないぼくです。」

 歓喜のあまり、そんなメールを思いつく友人に片っ端から送りつけました。PHSから携帯に替えて間もない頃だったからか、送り主のわからないそんなメールに友人の一人が「だれ?」と返事を寄越して、初めて自分の失態を理解しました。慌てて「石井です(^^;)」と返信したところ、「そうだろうと思った(^^)」と、あっさり見抜かれていたことに苦笑いした覚えがあります。

 

 「なごり雪」

                          伊勢 正三

 汽車を待つ君の横で、ぼくは時計を気にしている。

 季節はずれの雪が降っている。

 「東京で見る雪はこれが最後ね」と淋しそうに君がつぶやく。

 なごり雪も降る時を知り、ふざけすぎた季節のあとで、

 今、春が来て君はきれいになった。

 去年よりずっときれいになった。

 

 動き始めた汽車の窓に顔をつけて、君は何か言おうとしている。

 君の唇が「さようなら」と動くことが怖くて下を向いていた。

 時が行けば幼い君も大人になると気付かないまま、

 今、春が来て君はきれいになった。

 去年よりずっときれいになった。

 

 君が去ったホームに残り落ちては溶ける雪を見ていた。

 今、春が来て君はきれいになった。

 去年よりずっときれいになった。

 

 ところで、この「なごり雪」ですが、「東京で見る雪≪は≫」であって「東京で見る雪≪も≫」でないことを深読みすると、「雪」が降ることそのものが見納めなのではなくて、あくまでも「東京」に降る雪を見るのが最後なのだと解釈できます。つまり、この女性が帰る故郷は、雪が降ることのある場所だということになります。また、時計を気にしながら「汽車を待つ」のであるから、この駅はどうやら始発駅ではなさそうです。さらに「動き始めた汽車の窓に顔をつけて」君が何か言おうとしているのだから、この汽車は窓の開かない、つまりは特急列車であると考えられます。大切な最後の言葉を伝えるのに、開くはずの窓を開けないなどということは考えられないからです。

 と、ここまでを整理してみると「主人公の青年が、卒業式も無事に済んで、桜も咲きそろった弥生の空に思いがけず舞うなごり雪の日、特急列車が止まる、始発駅ではない東京のどこかの駅で、学生時代を共に歩んだ恋人が卒業を機に故郷へ帰るのを、引き止めることも出来ずに見送ろうとしている」ということになります。

 世の中には物好きがいて、この歌が発表された当時の時刻表を調べてみたらしいのですが、特急列車の止まる東京の駅といえば、該当するのは中央本線の「八王子」しかないのだそうです。だとすれば、彼女の帰る故郷は、雪が降ることのある信州のどこか山がかった場所ということになります。

 もちろん、この歌の舞台が架空の場所であったとしても構わないのです。ただ、こんな風に考えると、手触りというか、この歌の心象風景がほんの少し輪郭を深めるようで面白いではありませんか。

 

 さてさて、進学塾などという場所で働いていると、毎年毎年、春はいやでも出会いと別れの季節となります。過ぎ去ろうとする季節と訪れようとする季節、その激しい季節の交換の狭間で、喜びとほんの少しの悲しみが交差して、一層切なさをかき立てます。そんな時、いつも思い出し口ずさむのはこの歌です。だから、ぼくはこの歌に込められた哀しみと、それを大きく包み込んでいる不思議な明るい空間のわけが、何となく理解できるような気がしているのです。

文責:石井