~モチベーションとは何か~

古今東西、あらゆる教師・保護者が腐心するのは「どうしたら生徒(子供)がやる気を出して、学習してくれるのか」という点でしょう。
これは一人でも部下(子供)を持つ立場にあるものが、与えられた仕事(役割)から目をそらさずに目標(希望)を達成しようとすれば、必ず突き当たる大きな壁ではないでしょうか。
今回はフレデリック・ハーズバーグの有名な論文「モチベーションとは何か」を参考に、生徒(子供)をやる気にさせるヒントがないかいっしょに考えてみたいと思います。

ハーズバーグって誰?

ハーズバーグはアメリカの臨床心理学者(元ユタ大学教授)です。彼の論文(1968年)で主張された欲求に関する「二要因理論」は、 ハーバード・ビジネスでも最多の100万部以上のリプリントを記録しているほどです。
彼は人間のモチベーションを、動物的な欲求あるいは経済的な欲求(衛生要因あるいはメインテナンス要因)と、心の奥底にある向上心を満たす欲求(動機付け要因)とに分け、 「やる気」という心理的・抽象的分野を行動科学の面から分析したことにより、この分野の第一人者の評価を得ている学者です。
では、彼の論文をのぞいて見ましょう。

KITAによるモチベーション

人に何かをさせる、最も簡単かつ確実で、直接的な方法とは何でしょうか。
それは一言「やりなさい」と言うことです。しかし、「嫌です」と言われたら、心理学者(著名な教育学者)に依頼し、なぜ抵抗するのか、その理由を聞かねばならないことになります(笑い)。
それでは、拒否されたらどうするか。「命令すればよい」のです。しかし、「あなたの言っている意味がわかりません」と言われたら、コミュニケーション技術の専門家に頼んで、 あなたの真意を伝える方法を学ばなければなりません。表彰(お小遣い)を増やす(ニンジンをぶら下げる)と言う方法もありますが、効果があるのは最初だけ、 続けるには上司(配偶者)の理解がいりますがそれは難しいかもしれません。

では、手取り足取り教えればよいと思い直してみますが、これには膨大な時間というコストがかかり、そうそう付き合ってばかりはいられません。
すると、どこの学校(家庭)にも「直接行動派」の教師(父親)はいるもので、彼は「やらないなら、蹴飛ばすぞ」とどやしつけます。
彼は間違ってはいません。なぜなら軍隊でもなんでも、誰かに何かをさせる一番確実で、一番手っ取り早い方法は、尻を蹴飛ばすことだからです。これをKITAといいます。 (尻を蹴飛ばせ:Kick in the pants.の文字を組み合わせてKITAといいます。)

消極的かつ肉体的KITA

以上のような「蹴飛ばす」式のKITAを、消極的かつ肉体的KITAと呼びますが、これには以下のような弱点があります。

①野暮である。

②多くの組織が大事にしている温情主義の看板を傷つける。

③肉体的な制裁は自律神経を直接刺激し、しばしば消極的反発を招きます。

分かりやすく言えば、このような行動を起こせば、私は部下から仕返しに尻を蹴飛ばされるはめになりかねないということです。
従って、このKITAはタブー視されることになりました。
すると、困り果てた管理者はどうするでしょうか。そうです。彼は心理学者を呼び、人間の精神的な弱点を数限りなく探りだし、それを利用する方法を考え出したのです。
これを消極的かつ心理的KITAと呼びます。

消極的・心理的KITA

この消極的・心理的KITAには消極的・肉体的KITAに比べいくつかの利点があります。

第一に、残酷さが目に付かないということ。

第二に、肉体的反発を招く恐れが少ないということ。

第三に、個人が感じうる精神的苦痛の数は無限に近いから、KITAが作用しうる方向と場所が何倍にも増えるということ。

第四に、蹴飛ばす側の人間は「高みの見物」を決め込み、組織的に三K仕事に従事させることができる。

第五に、実行者がある程度の優越感を味わえ、しかも血を見ずにすむということ。

最後に、もし生徒(社員)に文句を言われても、制裁を加えた具体的根拠が無いため、彼を変わり者として片つけることができるのです。

では、これら消極的KITAによりいったい何が得られるでしょうか。 もし教師(親)が生徒(子供)を蹴飛ばしたとして・・肉体的または精神的に・・誰が動機づけられたでしょうか。 動機付けられたのは教師、動いたのは生徒。つまり、消極的KITAは、モチベーションではなくただ行動をさせるだけなのです。これでは自立的な行動とはいえませんね。

積極的KITA

ここで今一度モチベーションについて考えてみたいと思います。
例えば、私が娘に「きみに成績をアップしてもらいたいので、もしこれをやってくれたら、お小遣いを増やし、親としてできることは何でもしてあげよう」と言ったとして、 娘のやる気を引き出すことに本当になるでしょうか。一般的な私への回答は、「そうだ、そのとおり。それこそがモチベーションだ」というものでしょう。でも、ほんとにそうでしょうか?
この疑問に答えるには、私のある経験が参考になるかもしれません。

私は昔二歳になる柴犬を飼っていました。まだ子犬だった頃、自分の思いどおりに動かそうと、大きな声でしかったり、尻を叩いていました。 しかし、彼に主人の命令に従うという訓練をしてからは、ドッグ・フードを与えればよくなりました。

この場合、誰が動機付けられたのでしょうか。私でしょうか、それとも愛犬でしょうか。

犬はフードを欲しますが、犬に動いてほしいのは実は私なんですね。
ここまで来ると、きっと何かを感じたかたもおられることでしょう。
そう、ここでもやはり動機付けられるのは私であり、動くのは犬なのです。

この場合、私がしたことといえば、KITAを真正面から適用したにすぎず、押す代わりに引っ張ったにすぎないのです。(これを積極的KITAと呼びます)

このような「積極的KITA」を用いようとするならば、生徒(社員)を飛び跳ねさせるために目の前でちらつかせるドッグ・フード(人間の場合は「あめ玉」というべきでしょうねぇ)は、 多種多様に存在しています。
教師・親はしばしば「消極的KITA」はモチベーションにならないと即断し、「積極的KITA」はモチベーションなると異口同音に主張します。それはなぜでしょうか。

その理由は、「消極的KITA」が暴力的だとすると、「積極的KITA」は誘惑的だからです。しかしながら、誘惑に負けるほうが暴力を振るわれるよりもずっと不幸かもしれません。 なぜなら、暴力は不運な事故として済ませられますが、誘惑は自堕落を思い知らせるものだからです。それにもかかわらず、積極的KITAは好んで使われます。
これは伝統的な方法ですが、いかにもアメリカ的なマネジメント手法といえるでしょう。
この手法によれば、確かに組織はあなたを蹴飛ばさなくても済みます。

しかし、あなた自身が、自らを蹴飛ばすのです。
つまり、本当に「自立」した人間として自らが「やる気」を持ったわけではないのです。
ここにこの「KITA」の限界があります。

方法論では「やる気」にはならない?!

以上いろいろ見てきましたが、「消極的KITA」にしろ「積極的KITA」にしろ、「やる気にさせたいもの(親、教師)」と「そのものに動かされるもの(子供、生徒)」との間には動かしがたい「限界」があります。
何かに誘引され、動機付けしてくれた人の思惑通り動いたとしても、その人間が自立して動かなければ本当の意味で「やる気」になったとはいえないでしょう。
学者が「モチベーション」をどんなに科学的に理論付けても、「やる気」にさせる便法とは決してなりません。
そのような方法論をもし発見したなら、「風邪薬の特効薬」「水虫の特効薬」に匹敵する「ノーベル賞」ものでしょう(笑い)。
では、やる気にさせることはできないのでしょうか

「宮大工の徒弟教育」

ここで興味ある話をご紹介します。
薬師寺の再興でしられ、「最後の宮大工」と称された有名な宮大工の西岡常一という人がいます。NHKの「プロジェクトX」にも紹介されましたからご存知の方もいるでしょう。
この西岡さんの紹介は、別の機会にまわすとして、その弟子に小川三夫さんという方がいます。その小川さんが「師匠」を語っておられるなかに興味ある話がありましたのでご紹介しましょう。(以下要約)

何も教えない

弟子を採用しても最初は何も教えない。ただただ放っておく。本人がやりたいと言う気持ちが湧くまでじっと待つ。
最初は食事の世話をさせる。家では満足に食事も作ったことのない現代っ子に全員の食事を作らせる。中には「こんにゃく一切れだけ」ということもあるし、唯一作れる「オムライス」を1週間作り続ける弟子もいる。
なぜ食事を作らせるかと言うと、その子の仕事の段取りのよさ、思いやりというのが分かるからだ。これと掃除を1年間やらせるなかで、この子はどういう子で、どんなふうに育てるかということを見ていく。

食事の支度が終わったら、今度は現場に行かせる。現場では掃除をさせる。
すぐそばで、先輩がきれいな柱を削っている。鉋(カンナ)ですーっすーっと。
「あぁ、こんなふうに早く削りたいなぁ」と思うまで待つ。
そして、本人が本当に削りたいと思ったときに鉋を貸してやる。それも自分が大事にしている一番よい鉋を。
するとその弟子は、もう嬉しくて嬉しくてたまらないという感じで削る。柱が板になるほど削る。そして、その夜から刃物の研ぎ方が全然違ってくる。
最初から鉋とはこういうもので、こうすればうまく削れると言ったら絶対ダメである。

小川さんは続けてこう言います。

最初から鉋はこういうもので、こうすれば削れるんだぞなんて言ったら絶対ダメである。
学校ではそういう教え方をするようだが、そんなことを教えても、それでもし削れなかったら苦痛でしかない。自分で削りたいと、本当に思っていないのだから。
放っておいて、放っておいて、とにかく我慢比べである。待つだけ待って、「今」という時に鉋を貸して削らせる。 そうするとまるで人間が変わったかのように仕事に夢中になる。教えないということは、やはり大事である。
まだまだ未熟なうちに無駄をいっぱいさせてあげないとダメである。
教えてあげることは親切なようで、その子の身にはつかない。事は急いだらだめである。
教えてやれば30分でできるようなことも、教えなければ二日も三日もかかるものである。
しかし、その無駄を一人前でないときに、いっぱいさせないとだめである。
西岡棟梁も私に手本を示してくれたのは、目の前で削ってくれた鉋屑一枚であった。
あとはなにも教えてくれなかったと思う。しかし、一緒に生活していたから、いろんなことが身についたと思う。(致知出版主催の講演会から)

世はスピード化の時代。IT化はビル・ゲイツでさえ予想を超える。 企業の優勝劣敗もスピードで決まる。先んずれば人を制す。 ペーパーテストで1点でも多くとる生徒が「頭のよい」生徒。 「優秀なはずの官僚・政治家」がいるはずなのに、「日本はダッチロール」ばかり。 競争は不可欠だが、「何のため」が欠けている。

早く咲くもある。遅く咲く花もある。咲くべきときを全ての花は知っている。 木という木が「松柏」ばかりでは味気ない。 西岡棟梁はいう。

「建物は良い木ばかりでは建たない。北側で育ったアテという、どうしようもない木がある。しかし、日当たりの悪い場所で使うと、何百年も我慢する良い木になる。」

親や教師にできること。それは、「愛情の発信」と「待つこと(見守ること)」。 塾の教師として、親の負託に応えつつ、「育ちの時をつくること」の難しさ。

塾歴30年。答えいまだ模索中。

(2010.03.09~2010.4.22)