前回紹介した「被爆ピアノコンサート」に参加したときのことです。会場に「稲穂」が飾ってあるのに気がつきました。会が終了し、帰ろうと受付の前を通ると新聞のコピーが置いてありました。

立ち止まって見ると、「ナガサキの原爆稲」という文字が飛び込んできました。
1部持ち帰りました。自宅で読んで複雑な思いがしました。ここで紹介しましょう。

1945年10月。九州大学農学部の調査団が、爆心地から約500mにある天主堂近くの田んぼで被爆した「稲」を採取しました。この「原爆稲」は代を変えながら、植え継がれ、今全国に広まっているそうです。
栃木県の農家である上野長一さんは、自分の田んぼの一角で、保存用としてこの「原爆稲」を栽培し、この演奏会に送ってきたのだということがこのコピーからわかったのです。
以下、「日本農業新聞(2010年8月5日付)からの抜粋です。

『病気にかかったわけでも、虫に食われたわけでもないのに、何世代を経ても通常の半分しか実らない稲がある。(中略)
6日に広島、9日は長崎に落とされた原爆は、推定21万4000人の犠牲者を出し、今も後遺症で11万人以上が苦しんでいる。被爆しながら生き抜いた稲も同様だ。今も戦争の’生き証人’として、長崎から各地に栽培が広がり、平和の尊さを伝え続けている。
稲は原子爆弾の放射能の影響で、染色体が切れて入れ替わる異常が発生した。花が咲くところまでは普通の稲と見た目は変わらないが、穂の半分は中身のない白い空モミとなる。
現在は放射線を人工的に植物に当てることが可能となり、研究材料としての価値はほとんどなくなってしまった。しかし、その種を「被爆の現実を伝えるために残し、たくさんの人に広めよう」と九州大学卒業生の古賀さん(69)が95年、同大学から20粒ほどの種を譲り受け栽培を続け、今では全国に広まっている。
穂を全国に送り続けている古賀さんは「戦争の証言者はいずれいなくなってしまう。その時、子どもたちには戦争があったことや原爆の恐ろしさを稲を通じて知ってほしい」と次代に思いをつなぐ。』

『農から問い掛け 栃木県上三川町の米農家、上野長一さん(58)も5年前、古賀さんからその穂を受け取った一人だ。上野さんは戦争を経験した世代ではない。だが、新聞で原爆稲の記事を見つけたことをきっかけに「自分も農業から平和を考えることができないか」と思い立ち、行動に移した。
毎年多くの稲を植え付ける上野さんにとって、食用に向かない原爆稲は平和を考える稲として重要なものになった。
栽培を続けるうち、地元のラジオ局や新聞に紹介され、次第に稲の知名度は高まっていた。これまでに地元小学校をはじめ、原爆被害の絵画などを収蔵する埼玉県の丸木美術館、新潟県の青年グループなど全国20カ所以上に空もみがついた状態の稲を封筒に入れ、広めている。稲は、希望者に配るためと、翌年の種もみにするために保存しており、収入源にはならない。それでも上野さんは、毎年田んぼの隅に200株ほどの苗を植え続ける。
被爆体験や戦争経験者のように当時を語ることはできないが、毎年空もみを見るたび、「戦争は2度と起こしてはならない」という思いを強くする。
終戦から65年がたち、戦争が人々の記憶から遠ざかる。戦いの悲惨さや無意味さを語る物を基に、平和と命の尊さを次代に伝えようとする人たちの取り組みを追った。』(原文)

この被爆稲はすでに数十代にも渡って代替わりしているそうです。

しかし、65年がたった今でも半数は空もみです。放射能の影響がいかに強いかがわかります。普通、農家の人は良いコメを作るために、実の入りの良いもみを種として残します。
ところが、被爆稲の場合、逆に放射能の影響の強い実入りの悪いもみをあえて残しているのだそうです。
農家の方は、本来「いいものを残したい」はずです。それなのにあえて「空もみ」の多いものを残しているのです。
その行動に強い平和への意志を感じるのは、きっと私一人だけではないでしょう。
確かに、地味な取り組みです。「尖閣」「北方」と国家間の難しい問題が新聞をにぎわしている昨今。しかし、こうした地味な取り組みこそが、ややもすると勇ましいアピールに対する防波堤になっているに違いありません。

一人ひとりの「人間」に平和の魂を根つかせることこそが、遠いようで一番の「近道」に違いない。平和のありがたさを実感した久しぶりの休日でした。

(2010.10.25~2010.11.08)