「分岐点 ―受験生諸君に贈る」
 分岐点、それは人生のあらゆる瞬間に待ち構えていて、人生に彩りを与えもすれば、ぼくらを惑い悩ませもする。
 何か目に見えぬ大きな力に押し流されて知らぬ間に通り過ぎてしまう分岐点もあれば、しっかり立ち止まって自らの意志と責任で選んで進む分岐点もある。そのひとつひとつに、捨て去ってきた別の人生があるとすれば、選んだ人生も、選ばなかった、あるいは選べなかった人生も、歳と共に網の目のようにどんどんと延び広がっていく。その複雑模様こそが人生なのかもしれない。
 分岐点のひとつひとつで問題になるのは、自分にとって、果たして何が最も正しい選択かということだが、よくよく考えてみると、人生の渦中にいるぼくら自身に答えの出る問題ではないのかもしれない。
 迷わずに最短距離でゴールにたどり着くには、ゴールから逆進して答えを見つけるか、もしくは全景を俯瞰(ふかん)しつつ分岐点の先にあるものを知り尽くす必要がある。だが、紙の上の小さな迷路であるならまだしも、人生という名の巨大迷路を歩くとなれば、そうもいかない。それに、もし仮に答えが探せるのだとしても、ぼくはそんなつまらないことをするつもりはこれっぽっちもない。答えのわかってしまったナゾナゾを心から楽しむには、何か別の才能が必要だ。迷路の楽しみが行きつ戻りつ迷うことそのものにあるのだとすれば、人生もまた多かれ少なかれ似たようなものに違いない。訳が分からないからこそ喜びも哀しみも大切に受け止められるのだし、こんなにも人を大事にすることが出来るのだ。何をやってもうまくいった試しがないと人生を嘆き諦めるのは、何でも望み通りになる人生が存在すると信じるほどに愚かなことだ。
 「受験」、それはひとつの分岐点であり、人生に於(お)いてそう度々は訪れないちょっと大きな分かれ道である。ぼくが心から諸君を応援するのは、それが仕事だからということでは決してなく、小学時代、あるいは中学時代というものが、間違いなく諸君の人生におけるまたとない、ひとつの輝かしい季節であるからだ。心豊かな少年時代、もしくは少女時代を過ごした者だけがステキな大人になれるのだとしたら、この季節を、なし崩しに自分をすり減らして息も絶え絶えに乗り切るのではなく、むしろ生き生きと自分を満たし、しっかりと成長し切って卒業しなければならない。
 「受験勉強」に、ではない、自分の「人生」に真摯(しんし)に立ち向かえ。
 別々の道がいつかその先で合流して同じ結果を生み出すこともあれば、目先の成功がより大きな失敗につながっていたり、苦渋の選択のはずが結果として望ましい未来への入り口になっていたり・・・と、十年・二十年先に振り返ってみるのでなければ分岐点の先がどうなっているのかは誰にもわからない。けれども、そんな人生に於いて、反省はしても後悔だけは決してしないための、たったひとつの方法がある。
 それは「一所懸命であること」「自分に出来る精一杯の努力をすること」だ。
 ・・・と、ここまでなら誰でも考え付くし言葉にもする。大切なのはその後だ。「精一杯努力して得た結果が、自分にとって最も正しい結果なのだ」と「気付く」こと。それが肝要だ。そうと気付くことのない人々が「結果」に振り回され惑わされて人生につまずくのである。だから、努力を伴わない一見最高の結果にぼくは価値を認めない。仮に思い描いた未来図とは異なっていても、最高の努力の末に得た結果に、むしろぼくは価値を認める。結果より過程が大事、とはそういうことだ。
 もちろん諸君には最高の結果を期待してエールを送るけれど、願わくはそれが最高の努力の末の結果であって欲しいと、心からそう願っている。
 中途半端な姿勢は後悔を生み出す温床となる。今すぐ甘えも中途半端も捨て去ろう。
 まだ間に合う。自分の努力を信じて胸を張って受験に臨めない者は今からでも遅くはない、この挑戦そのものを諦めるべきである。いずれにしても後悔が生まれるだけだから・・・。
 まず見つめるべきは、残された日々の自分自身の姿勢である。
 今、決意を新たにしよう。
 決意した瞬間に結果は成就(じょうじゅ)するもの。ゆえに試されるのは自身の決意の深さ、それだけだということを正しく知らなければならない。正しく深い決意こそが正しい結果を導くのだ。中途半端な決意には相応の結果が待ち受けている。
 その日に至る残された日々の諸君の健闘を祈って止まない。反省はしても決して後悔だけはしないために・・・。
―文責 石井