「2005年8月6日、土曜日。晴れ。
世界陸上ヘルシンキ大会が開幕する日。渋谷の公園通りに「アップルストア」がオープンする日。炎の三ツ星シェフ堺正章の誕生日。ハム太郎の誕生日……。
そして恐らくは記録にも記憶にも残らない、ぼくの平凡な一日。
講習の狭間のこの休日を、足りない睡眠時間のつじつま合わせに昼過ぎまで寝て過ごすつもりが、午前8時15分の長々と響くサイレンの音で起こされる。」

そう、1945年8月6日。60年前の今日は、広島において人類が初めて核兵器を体験した日です。にもかかわらず、戦争を本当には知らないぼくの日常生活の平凡なひとコマと、社会科の教科書で学んだ歴史のひとコマとが、どうしてもきれいに重なり合わないのです。繰り返してはならない歴史を正しく学び、今日へとつなげる努力が大切であるということは言うまでもありません。毎年訪れるこの日が、ぼくの人生の大切な区切りとならないのは悲しむべきことです。けれども、それは必ずしも「広島に原爆が落とされた日」という意味である必要はありません。ぼくの一生の中の、通り過ぎてしまえば二度と戻らないかけがえのない一日として、今日と言わず、昨日もそして明日も大切に胸に刻んで生きていきたい。そういうことです。

悲しいことに人類は、「昨日」の反省を「今日」に生かすという知恵を何処かに置き忘れでもしたかのように、ことあるごとに愚かな「戦争」へと傾斜し、おかげで心ある人々は悲しみの海に溺れかけています。戦争のない時代を創ろうという願いは、もはやメルヘンの世界にも生存権がなくなってしまったようです。けれども、いや、だからこそ、考え続けなければならない、願い続けなければならないのです。
「平和な時代」「戦争のない時代」というイメージを、今よりほんの少しでいいから具体的に、誰もが思い描き、心に深く刻んで生きるなら、少なくとも今よりひどい時代へと加速度的に転がり落ちていくことに対するつっかえ棒くらいにはなるかもしれません。

今日も暑い一日に、なりそうです。

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※古い文章ですみません。

石井