この季節になると思い出すことがあります。
それは二度目に沖縄を訪れたときのことです。
はたしてぼくにそんな資格があるのかどうかという大きな不安を抱えたまま、かつて「ひめゆり学園(沖縄師範学校女子部・沖縄県立第一高等女学校)」のあった安里(あさと)地区を基点に、レンタカー(とてもじゃないけれど歩いて回る勇気は持てませんでした)で1945年の<ひめゆり>の少女たちの足跡を追った日のことです。
まるで散る以外に明日を持たなかったような少女たち。その面影を、たとえわずかなイメージであったとしても、ぼくは胸に刻んでおきたいと考えたのです。沖縄への憧れを意識した日から十四年かかってようやく沖縄にたどり着き、こうして繰り返し沖縄を訪れる以上、そこを避けて通ることは、どうしてもぼくの中で許されないことだったのです。
沖縄には対外的に、大きく分けて三つの顔があります。琉球王国においてひとつの頂点に達し、以来脈々と受け継がれてきた「歴史・文化」的な側面。世界でも有数のリゾート地に数えられる美しい「自然」。そして、否応なく刻まれてしまった「戦争」の傷跡。そこに、それらを一見超越しているようで、実のところ完全に切り離されることはない微妙な距離感を保って人々の「日常」が横たわっています。
二度目の訪沖の目線の高さを「戦跡」としての側面に合わせることに決めたのはいいけれど、沖縄の戦跡といっても、それこそ足を下ろす場所にさえ困るほど無数にあります。まずは<ひめゆり>から始めようと考えたのは、訪沖に先立つ5月に、仲宗根政善の手になる「ひめゆりの塔をめぐる人々の手記」を手に入れたことがきっかけでした。その一冊を繰り返し読んで、ガイドブック代わりに持ち歩いたぼくでした。

1945年3月24日。
「ひめゆり」最後の物語は、この日から始まります。

詳しい記録はさまざまな関係書に委ねるとして、その足跡のおおよそは以下の通りです。

米軍の沖縄上陸作戦に先駆けて慶良間(けらま)攻略と同時に始まった本島への艦砲射撃が、少女たちの運命を後戻りのできない地獄へと導いていきます。
戦争に駆り出される何の法的根拠もないままに軍命を受け、従軍看護婦としての任務に就くべく、この夜、親兄弟と別れて南風原(はえばる)陸軍病院壕へと移動を開始した少女たち。それが永久(とわ)の別れになるなどということを一体幾人が想像したでしょう。
南風原にある黄金森の丘陵に、まるで蟻の巣のように掘り抜かれたおよそ三十の病院壕。ここでふた月を過ごしたひめゆり部隊は、読谷(よみたん)・嘉手納(かでな)・北谷(ちゃたん)と続く西海岸から上陸し南北に展開した米軍部隊がいよいよ首里へと迫る5月25日午後8時、再び軍命により独歩(どっぽ)患者を伴って南部への撤退を開始します。
南の果て島尻まで転戦したひめゆりの少女たちは、6月19日、現在「ひめゆり平和祈念館」の建つ第三外科壕において、米軍包囲の中、ついに解散命令が出され、戦禍の只中へと壕を追われるのです。そうして、およそ三ヶ月に渡ったひめゆりの物語にひとつの終止符が打たれます。ひめゆり部隊210名の犠牲者の多くが、この19日以降のわずか数日間に集中していることが、解散命令の意味を物語っているように思えてなりません。

現・国際通りの東端から、ひめゆり通りを南下し、かつて高射砲陣地があった世界遺産の識名(しきな)園を越えれば南風原陸軍病院の分院があった一日橋に至ります。さらに兼城の十字路から南下し、国民学校跡の南風原小学校を左に見つつ坂を下ると黄金森公園を抱いた緑の丘陵が眼下に広がります。霊域としての整備も行き届いていないためか訪れる人もいない。そこが南風原陸軍病院壕跡です。
艦砲に砕かれ機銃に散らされ、かつて山肌も露わであったという丘陵が、このときは夏の緑濃い陰影に包まれていました。
米軍の進行に伴う南部撤退に際して、わずかな独歩患者を除く二千有余名の傷病兵が手榴弾や青酸カリによって「処置」の名の下に葬られたという巨大な霊域は、昼なお息苦しく迫ってくるようなただならぬ気配を漂わせていました。
登り口の慰霊碑に静かに手を合わせたあと、丘陵の斜面を一人登っていくと、今では下草に覆われているものの、抉(えぐ)り取るように掘り返された艦砲弾の跡がはっきりそれとわかります。
1966年、政策的に「悲風の丘」の碑が建立され、英霊顕彰によってその一部が美談にすりかえられてきた歴史を思うにつけ、言葉にならない怒りにも似た嫌悪を覚えます。一体これらのどこに「美」の入り込む余地があるというのでしょう。
それから半日かけて、東風平(こちんだ)・志多伯(したはく)・与座・真壁と少女たちの足取りを追って伊原へと南下し、やがて「ひめゆり平和祈念館」のある島尻へと行き着いたのでした。戦時中には米軍のゴミ捨て場だったという国道脇のつぶれた自然壕を横目に、その目と鼻の先、ぽっかりと暗く空に向かって穿(うが)たれた第三外科壕の入口に立ったぼくは、しんとした静かな心で手を合わせ献花しました。そして目的の「平和祈念資料館」へ。門柱の脇に、かつてひめゆり学園の校門前に並木を作り、木もれ陽のアーチを描いたという想思樹が植えられ、仰角80度の陽射しに照り返されています。入り口で入場券を求め、玄関ホールから順路となる時計回りに資料館をめぐり、たっぷり2時間かけて、慰霊の間に飾られた<ひめゆり>の少女たち一人ひとりと会いました。「手記」の記録によって落ち葉のように名前だけが降り積もったぼくの心の中で、そうして出会う一人一人の面影が、自らの名前を探し当てるように重なっていきます。
それから、ぼくはさらに足を延ばし、解散命令を受けて壕を追われた多くの少女が命を散らすこととなる、アダンの森に覆われた島尻の喜屋武岬の断崖へと向かったのでした。

「戦争反対」と声を大きくして叫ぶことは、一見平和なこの今の日本において、決して難しいことではありません。けれども、大切なことは「なぜ戦争反対なのか」という明確な根拠を一人ひとりがしっかりと胸に刻むことだと思うのです。どんな幼稚な理由でもいい。そうして一人ひとりが具体的な根拠を持って「戦争」を憎み続けることが肝要です。根拠のない叫びは、やがてさらに大きな悪意ある声に飲み込まれて掻き消されてしまうか、気付かぬうちに別の叫びへとすりかえられてしまうという不安を拭いきれないのです。
大きな声で叫ぶ必要などありません。ぼくらは静かに、けれども熱く、人類が最も愚かだったこの100年を振り返り、訪れる100年にその過ちを決して繰り返さない深い決意を胸に刻まねばなりません。「戦争」という「時代」は残念ながら、最も「純粋」で、ゆえに最も「美しい」はずのものから徹底的に破壊していくのです。

今年も十五歳の少女たちの一年に携わり、この三月には、それぞれの志望校に合格した彼女たちを送り出したばかりのぼくです。その悪戯なしぐさや時折見せる素直さや甘えや反発や、何といってもステキな笑顔を思わずにいられません。彼女たちが、どんな大人になるにしろ、その笑顔を奪う権利が彼女たち自身以外の手に渡ることがないようにと、ただただ願うばかりです。

<6月23日 沖縄慰霊の日>

 

※本文の内容から推測可能かと思いますが、これは21世紀が始まって間もないころのエッセイです。

ぼくの記憶が間違っていなければ、2007年に黄金森の南風原陸軍病院壕跡の、戦跡としての整備が始まっています。

※「ひめゆり平和祈念館」は、現在リニューアルして公開されています。

文責:石井