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3 06, 2022

【アーカイブ⑧】風の篝火

By |2022-06-03T15:22:42+09:002022年06月03日|Uncategorized, 国分寺ブログ|0 Comments

かつて辰野町の蛍の乱舞を「風の篝火(かがりび)」という歌で見事に表現したのは、あの「北の国から」のテーマ曲の作者でもある「さだまさし」さんです。 (長野県上伊那郡辰野町は、大正14年に「蛍の発生場所」として天然記念物の指定を受け、以来町ぐるみで蛍の保護と育成に取り組んできた町であり、毎年のピークには目視量で20000匹に近い発生を数えるほどの蛍の名所です。) 当時、これもひとつの出会いと感じて、その歌のライナーノートをガイド代わりに、単身、辰野町を訪れる決心をしたぼくでしたが、残念ながらその日は気の早い台風が迫っていたこともあって、山梨県に入ったあたりから激しい風が吹き始め、上諏訪の駅に着く頃には叩き付けるような雨まで降り出して、後ろ髪を引かれるような思いで上諏訪から上りの列車に乗り換えて引き返したのでした。そんなこともあって翌年の6月には、まるで忘れ物を取りにでも行くように、「是非にも」という同僚を一人伴って、再び辰野町を訪ねたのです。 蛍は雨でも、また風が強くても下草に隠れてしまうので、夜空を舞う蛍火と出会うには天候の助けが必要となります。中央本線から飯田線に乗り継いだぼくらは、まるで祈るような静かな気持ちで列車のタラップを降りたことを覚えています。 日のあるうちに着いたぼくらは、土産のつもりで地酒「蛍祭」を手に入れ、ついでに店の親父さんが使っていた団扇(夕闇の草原にシルエットの男の子と女の子、そして舞い上がる蛍が版画のようにデザインされていました)をねだって譲り受け、主役の登場を待つ形で、賑わう町中をぶらついて祭り気分を満喫しました。 お好み焼き・たこ焼き・ヨーヨー釣り・あんず飴・りんご飴・セルロイドのお面・ソースせんべい・クレープ・焼きそば・色とりどりの風船・金魚すくい・鉢植えの日々草や朝顔。売り子の声・スピーカーから流れる歌・子供たちの歓声・浴衣姿の女の子・下駄の音・アセチレンガス灯の揺らめき……。 やがて日が落ちて、町全体に不思議な高揚感が満ちてくる頃、人の足に弾みがついて、町外れ、松尾峡の川辺へと人込みは流れを変えます。 辰野で観測される蛍は、ゲンジボタル・ヘイケボタル・ヒメボタル・クロマドボタル・オバボタルの5種類で、6月の下旬に開催される蛍祭りは、ゲンジボタルの発生にあわせてのものとなっています。ゲンジボタルは日本古来の種で、大きな蛍火がゆっくりとフェイドイン・フェイドアウトするように明滅する大変印象的な蛍です。 一年願い続けてようやく巡り会えた蛍。それは言葉に尽くせない感動でした。草原を風が渡ると、葉陰の蛍は、まるで足下に広がる星空のようです。一瞬、風が止むと、気の早い蛍が一匹、夕闇の空へ舞い立ちます。次の瞬間、足下の星空、シリウスが、カシオペアが、オリオンが、一大交響曲の旋律のように舞い上がるのです。蛍・蛍・蛍……。それは緩やかな曲線を描いてぼくらの心を正確になぞり、沈黙の持つ、ある種の雄弁さ(饒舌(じょうぜつ)では決してありません)でもって、際限もなくぼくらに語りかけてきます。もちろんそれは「風の篝火」を前にたたずむ一人一人の心模様に他ならず、ゆえにぼくらが読み取り、聞き取っていたはずの言葉は、残念ながら万人の共有しうるものではありません。闇と対峙し、光と向き合う時間は、また、自分と対峙し、自分自身と向き合う時間でもあるのです。 梅雨のわずかな晴れ間を惜しむように飛び交う蛍。寄せては返し、飽くことなく繰り返す波のように、あるいは山裾の湿地を覆(おお)った、それは草叢(くさむら)の生命そのものであるかのごとくに、ゆるやかにシンクロする無数の蛍の明滅。 ......

28 05, 2022

【コラム㉒】そうだ 京都、行こう! ⑤

By |2022-05-29T11:55:23+09:002022年05月28日|国分寺ブログ|0 Comments

通称「八坂の塔」は、臨済宗建仁寺派の法観寺五重塔で、京都でも屈指の歴史の古さを誇ります。残念ながら応仁の乱で法観寺の他の伽藍は焼失し、五重塔だけが残ったのだそうです。   八坂の塔をぐるっと右に巻いて、二年坂の降り口を過ぎ、産寧坂(三年坂)の賑わいを通り抜け、突き当りの清水坂を左に折れて松原通を上がればいよいよ目的地「清水寺」です。 さすがに産寧坂から清水坂にかけては修学旅行の中高生の密度が高く、どの土産物店の店先にも人だかりができています。 産寧坂と清水坂のT字路の角にある「七味屋」をご存じでしょうか。京都を訪れるたびに、この店の香り七味を買って帰ったことを思い出して店を覗いてみると、店員さんが白い紙コップを差し出してきます。中を見ると、一味唐辛子に水を加えただけの「一味水」とでもいうべきものが入っています。 勧められるままにその一味水を飲んでみると、辛みの向こう側に微かに柚子の香りがします。なるほど柚子風味の一味唐辛子かと感心しながらコップを返すと、入れ替わりに別のコップを渡されます。今度は複雑な七味唐辛子の風味の中に山椒の香りが冴えている「七味水」です。 唐辛子の品定めに水に溶いて味見するという発想はなく、とても新鮮ですね。 迷わず2杯目にいただいた七味を購入して、次は錦古堂でこの夏のアイテムとなる扇子選び。 なかなか清水寺にたどり着けません。 デザインや色調の異なる沢山の扇子の中から、互いに惹かれ合うような、「これだ!」という特別な出会いを期待してゆっくりと店内を回ります。 ......

26 05, 2022

【コラム㉑】そうだ 京都、行こう! ④

By |2022-05-27T14:35:10+09:002022年05月26日|Uncategorized, 国分寺ブログ|0 Comments

※修学旅行で京都に行く際の参考にもなるかと思い、日帰りの突撃京都探索の記録を続けていこうと思います。   京阪宇治駅から宇治線で中書島(ちゅうしょじま)まで出て本線に乗り換え、祇園四条を目指します。 本線は、豊臣秀吉の伏見城があった伏見桃山、千本鳥居で知られる伏見稲荷、京都五山の第四位・東福寺と人気の観光スポットをつないでいきます。 ちなみに、織田・豊臣の世を安土桃山時代と呼びならわしますが、「桃山」というのは後の呼び方で、秀吉の居城があったのはあくまでも「伏見」です。ですから本来であれば「安土伏見時代」と呼ぶべきなのです。伏見城は、江戸時代に入っても重要な城として利用されていましたが、徳川幕府が出した「一国一城令」により、京都に二条城と伏見城の二城を維持できなくなったため、最後は跡形もなく解体されてしまいます。城だけでなく石垣や礎石も残らないほどの徹底した破壊ぶりで、城の建材の一部は京都二条城、江戸城、大阪城、そして大徳寺等の寺社でリユースされたものの、伏見城のあった場所はむき出しの土山になってしまったようです。その跡地に、地元の人々が桃の木を植え始め、やがて辺りは桃の木で覆われていきます。「桃山」という名称は明治時代に入ってからのものなのです。 話が逸れましたが、祇園四条駅で下車して、向かうは東山。まずは八坂神社へアクセスします。 京都の繁華街といえば四条河原町ですが、日帰り旅行の今回は時間の都合でパスします。 道々、修学旅行の中高生たちのグループを見かけます。昨年・一昨年は、新型コロナの影響で修学旅行も中止せざるを得ない学校が多かったことを考えると、これは喜ばしいことですね。 西楼門から神域に入り、八坂神社に参詣したその足で向かうのは東山最大の観光名所といっても過言ではない「清水寺」ですが、その前に腹ごしらえということで、石鳥居をくぐって下河原町通にある「京うどん美竹(よしたけ)」に寄ることにします。靴を脱ぎ、薄暗い廊下を通って案内されたお座敷には、恐らく外国人観光客や和装のお客様向けにテーブル席が並べられています。 運よく空いていたため、小さな日本庭園を眺めることのできる窓際の席に案内されました。 ......

24 05, 2022

【アーカイブ⑦】西武国分寺線エピソード

By |2022-05-24T15:31:34+09:002022年05月24日|Uncategorized, 国分寺ブログ|0 Comments

それは西武国分寺線の、身動きも取れないほどに混み合った登り電車の中での出来事です。 三人の女子高生が背広姿のサラリーマンたちの間で、押し潰されそうに寄り固まっていました。 「ラ ララララ ラララララ~♪」 その内の一人が突然小さいけれどはっきりと聞き取れる美しいハミングで、ぼくにも覚えのある『コンドルは飛んでいく』を歌い始めたのです。それが一体どういう経緯のことなのか判らないぼくでしたが、心持ち周囲にはばかるような気配で聞こえてくる美しいハミングの声は、決して悪い気はしませんでした。 不審に思ったのは、終わりまで口ずさむとまたはじめに戻って彼女が止まずにその歌をいつまでもいつまでも歌い続けることでした。一緒にいた二人の友達もどうしていいか判らない様子で、次第に不安を隠せなくなっていきます。ぼくはぼくで、すっかりことの成り行きに釘付けになって耳を傾けていました。 すると、歌い始めた時と同じように突然、恥ずかしさと苛立ちを露わにしたその女子高生は、いつまで続くかと思われたその長い長いハミングをピタリと歌い止めたではありませんか。 「一体いつまで歌わせるつもり!」 びっくりしたのはぼくだけではありません。二人の友達も返す言葉を探し出せずに、目をしばたたいています。 「何か言いなさいよぉ!」怒っているというよりは哀願するような口調です。 「何かって・・・?」とは友達の台詞。もちろんぼくも同じ気持ちです。 ......

23 05, 2022

【コラム⑳】ミス沖縄のおきなわ観光TV

By |2022-05-24T13:54:54+09:002022年05月23日|Uncategorized, 国分寺ブログ|0 Comments

「ミス沖縄」という名称から誤解されがちですが、彼女たちはれっきとした観光親善大使なのです。「沖縄の観光振興を目的に、国内外における観光関連催事・公式行事において沖縄観光親善大使として年に270日以上活動できる健康で明るく教養豊かな女性」として一年の任期で毎年選出されるのは、「ミス沖縄スカイブルー」「ミス沖縄コバルトブルー」「ミス沖縄クリーングリーングレイシャス」の3名です。 第一次書類審査、第二次面接を経て10名のファイナリストが選ばれ、本選ではそれぞれに工夫を凝らして沖縄の歴史や文化への造詣、沖縄観光に貢献する意気込み等をパフォーマンスして、3名が最終選出されます。毎年3名が選出され、第40代を迎えたミス沖縄は、延べ120名を数えます。 およそ40年前から活動しているミス沖縄の存在を知る人は、関係者や沖縄の方々を除けば決して多くはありません。それは彼女たちの活躍の場が公務に限られているからでしょうか。 2022年現在活動しているのは第40代ミス沖縄の3名ですが、今日は敢えて「第39代ミス沖縄」を紹介します。なぜなら、第39代の3名こそが「ミス沖縄」の存在を広く知らしめた功労者だからです。コロナ禍という艱難に遭って公務が減ったことをポジティブ変換し、沖縄のことをこれまで以上に学ぶチャンスととらえ、そうしてひとつひとつ出会っていく沖縄の隠れた魅力をより広く世間に伝えようと、公務に並行して、1年3か月に及ぶYOUTUBE動画の毎日配信を完遂した功績は決して小さくありません。 ぼくがミス沖縄を知るきっかけとなったのも、まさに前述のYOUTUBE動画でした。ある日突然のように現れた「ミス沖縄のおきなわ観光TV」のお勧め動画。いわゆる沖縄病のぼくは当たり前のようにその動画を再生して、まるで天啓のように第39代ミス沖縄の3人と出会ってしまったのでした。 第39代ミス沖縄は、スカイブルー:岩本華奈さん、コバルトブルー:山里ひかるさん、クリーングリーングレイシャス:新里瑞紀さんの3人です。実はこの3人、2020年の「ミス沖縄」として選ばれたのですが、コロナ禍で公務の機会が減ったために、特例として任期を1年延長して2年間「ミス沖縄」を務めることになりました。その2年目となる2021年1月1日。心から愛する沖縄を、もっともっと多くの人に知ってほしい、もっともっと沖縄の魅力を伝えたいとの思いから、公務と並行してYOUTUBE「ミス沖縄のおきなわ観光TV」に毎日沖縄紹介の動画をアップするという目標を立てます。以来任期満了までの1年3か月、公約を果たして450本を超える沖縄観光アピールの動画をアップし続けたのです。 「ミス沖縄のおきなわ観光TV」  ※バナーにはリンクが貼ってありますので、クリックで「ミス沖縄のおきなわ観光TV」にアクセスできます。 現在は第40代ミス沖縄の活動が始まっていますが、「ミス沖縄のおきなわ観光TV」には、第39代のアーカイブが残されていますので、沖縄好きの方は機会があれば是非ご覧ください。 「ミス沖縄のおきなわ観光TV」ページにアクセスし、「ホーム」タブの隣にある「動画」タブを開き、右上の「並べ替え」から「追加日(古い順)」を選択すると、第39代のミス沖縄選出から2022年3月31日卒業ライブまで、2年間の3人の成長をたどることができます。 ......

21 05, 2022

【コラム⑲】まくとぅそーけー、なんくるないさぁ

By |2022-05-21T17:50:28+09:002022年05月21日|Uncategorized, 国分寺ブログ|0 Comments

「そうだ 京都、行こう!」は一時お休みして、今日は「沖縄」の話題をお届けします。   沖縄は世界的にも非常に人気の高い観光地ですが、「うちなーぐち」いわゆる沖縄の言葉が大変難しいのは、もともと日本語の方言ではなく琉球語という別の言語だったからです。歴史的に見れば、その琉球王国が滅ぼされ、「薩摩の世」「大和の世」「アメリカの世」を経て、現在は再び日本に返還されて47都道府県の一県となっているのです。ただでさえ時代とともに言葉が変化するのは世の常。だとすれば沖縄の言葉の変遷がどれほど大きいものであったか想像がつきますね。 それでも、ぼくら「やまとんちゅう(沖縄以外の日本人)」の日常生活に、いくつかの「うちなーぐち」が溶け込んでいたりします。 「らふてぃ」「さーたーあんだぎー」「ごーやーちゃんぷるー」など食に関する言葉は特になじみがありますね。その他、聞いたことのある言葉に「めんそーれ」「海人(うみんちゅ)」「エイサー」「シーサー」「さんしん(三線)」などがあります。 気軽なあいさつに使われるのは「はいさーい」ですが、これは実は男性特有の言葉で、女性の場合は「はいたーい」と発声します。同じく、「またね」というような軽い別れの言葉に「またやーさーい」がありますが、これも男性言葉で、女性の場合は「またやーたーい」と変化します。 ただでさえ難しい「うちなーぐち」をさらに難しくしているのは、琉球語に奄美・沖縄・宮古・八重山・与那国 ・国頭の6つの方言があることです。 例えば、「ありがとう」を沖縄地方では「にふぇーでーびる」と表現しますが、宮古では「たんでぃがーたんでぃ」、八重山では「ふこーらさーん」と表現します。 ......

19 05, 2022

【コラム⑱】そうだ 京都、行こう! ③

By |2022-05-19T21:08:09+09:002022年05月19日|Uncategorized, 国分寺ブログ|0 Comments

宇治上神社を出ていよいよ平等院鳳凰堂に向かいます。 宇治川を目指して「さわらびの道」を下っていくと、宇治神社があります。宇治上神社と宇治神社、もともとは二社一体だったのが、明治時代に分離独立した府社です。宇治上神社に祀(まつ)られた三柱のうち、ここ宇治神社には菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)一体が祀られています。 帰りは宇治橋ではなく、平等院への近道となる朝霧橋を選び、宇治公園の橘島・塔の島を巡って対岸へ渡ります。 折角なので京都の河川について触れておくと、代表的なものが、渡月橋をくぐって西を流れる桂川、東山に沿って流れる鴨川、そして宇治川です。桂川は伏見の辺りで鴨川を吸収し、石清水八幡宮の西で、木津川とともに宇治川に吸収されて淀川となり大阪湾まで続きます。 さて平等院ですが、正直な感想としては、観光写真から想像していたような雄大さは感じられず、狭い敷地で肩をすぼめているような佇まいです。 それでも造形はさすがに立派で、一見の価値はあります。フォトスポットはやはり鳳凰堂が池に姿を映して天地の二方向を指し示す前庭ですね。季節柄、黄菖蒲の花が咲いていたので、それを画角に収めるように斜め右からのアングルで1枚撮影しています。   戻りは京都駅ではなく直接「東山」を目指すことにして、もう一度「宇治橋」を渡って京阪宇治駅へ回るつもりでいましたが、水分補給もせずに歩き回ったことに思い至ると途端に喉の渇きを覚えて(人間というのは不思議なものです)、折角宇治に来たのだからとお抹茶をいただくことにしました。抹茶の粉を薄く散らした羊羹(ようかん)をいただき、きめ細かな泡が中央で僅かに盛り上がったお抹茶をおいしくいただいて、次の目的地は東山。お昼ご飯も八坂神社か清水寺の辺りで食べることにして宇治を後にしたのでした。 文責:石井

17 05, 2022

【コラム⑰】そうだ 京都、行こう! ②

By |2022-05-19T21:09:12+09:002022年05月17日|Uncategorized, 国分寺ブログ|0 Comments

目的地は「京都」とだけ決めて出発したので、さてどこへ向かおうかと一瞬迷いました。が、時間制限のある旅ですから、悩む時間ももったいないと思い切って、行く機会のほとんどなかった宇治方面を散策してみようと奈良線みやこ路快速に乗りかえました。 「宇治」といえば「宇治茶」、そして源氏物語「橋姫」から「夢の浮橋」までの宇治十帖の舞台。最近では2015年に京都アニメーションが手掛けた「響け!ユーフォニアム」の舞台になった場所でもあります。 アニメの聖地巡礼に赴くファンも多いと聞きます。 宇治の観光案内所に飾られていた「響け!ユーフォニアム」の看板 宇治の駅を出て、10円玉のデザインでおなじみの「平等院鳳凰堂」は後に回し、まずは宇治橋を渡って世界文化遺産に登録されている「宇治上神社」を目指します。 うさぎのおみくじでも知られる宇治上神社本殿は日本最古の神社建築で、向かって右(左殿=第一殿)から菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)、中央(第二殿)に応神天皇、向かって左(右殿=第三殿)に仁徳天皇の三柱が檜皮葺(ひわだぶき)のひとつ屋根の下に並んで祭られています。   拝  殿             本  殿 菟道稚郎子は応神天皇の第三子でしたが父の寵愛(ちょうあい)を受けて後継ぎの皇太子となります。ところが、そのことを恨んだ長兄に軍を差し向けられ、兄弟同士の権力争いに絶望した菟道稚郎子は皇位を次兄(後の仁徳天皇)に譲って自ら命を絶ったといわれています。 宇治七名水のうち現存する最後のひとつ「桐原水(きりはらみず)」が手水舎(てみずや=神社本庁の読み方、他に「ちょうず」等の複数の読み方があります)となっています。普通「手水舎」といえば龍の口からほとばしる水が水盤に溜まっている風景を思い出しますが、ここ宇治上神社では小さな社の底に湧いて流れる自然水を上手ですくい、下手でお清めをして流すという珍しい形です。 ......

16 05, 2022

【コラム⑯】そうだ 京都、行こう! ①

By |2022-05-19T21:09:43+09:002022年05月16日|Uncategorized, 国分寺ブログ|0 Comments

平安遷都1200年の記念事業に合わせる形で1993年に始まったJR東海の「そうだ 京都、行こう」キャンペーン。開催当初、「KYOTO・CLUB」の会員募集があり、応募当選したぼくはおしゃれな会員証をゲットして、「KYOTO・CLUB」が解散するまでの10年間、折をみては京都に足しげく通いました。 KYOTO・CLUB会員証 その後、まとまった休みには繰り返し沖縄を訪れるようになったため、すっかり京都を訪れる機会もなくなってしまったのでした。   先日、十数年ぶりに、ふと「そうだ 京都、行こう」と思い立って、突撃日帰り京都旅行を敢行したので、その旅行記をしたためてみたいと思います。長くなるので、数回に分けて報告することになりそうです。   強行軍ではありますが、早朝の新幹線で京都入りして深夜に帰宅すれば、半日は京都に滞在できる計算になります。 思い切って早起きして東京駅を目指すと7:30発博多行の「のぞみ」に間に合って、いざ出発。不足した睡眠時間のつじつま合わせに新幹線で仮眠をとろうと考えていたものの、久しぶりの遠出でテンションが上がっているうえに、寝過ごして大阪、神戸、下手をすれば博多まで乗り越してしまうという不安もあって、とうとう睡魔に襲われることなく、予定通り9:44に京都入りを果たしました。 十数年ぶりに訪れた京都の駅がすっかり様変わりしていることに、まず驚かされます。 ......

10 05, 2022

【アーカイブ⑥】涙の数だけ強くなれるよ

By |2022-05-10T14:34:56+09:002022年05月10日|Uncategorized, 国分寺ブログ|0 Comments

世の中には涙の枯れ果ててしまった人もいて、それは紛(まぎ)れもなく不幸な人だろうけれど、涙を道具にして世の中を渡っていく術(すべ)を身に付けてしまった人はもっと不幸だ、と思うのです。涙は、枯れても、温度を失ってもいけないのです。 少年時代、人前ではおよそ泣いたことのないぼくでした。隠れて泣くことすら数えるほどで、それも悲しさや苦しさの表現では決してなく、敢(あ)えて言うなら自分自身の不甲斐(ふがい)なさや悔しさに対する激しい憤(いきどお)りの思い余っての露出だったように思えるのです。 泣くことも、そして怒ることも下手な人間が上手に笑えるものか・・・という気がしないでもありませんが、少年時代のぼくはいつも仲間たちの真ん中で無邪気に笑い転げていました。家庭に、敢えて居場所を作らなかったぼくを支えた「仲間」という存在が、辛うじてぼくの笑顔を保障してくれたという訳です。 今では自分自身の不甲斐なさや悔しさに涙することもほとんどといっていいほどなくなりました。まさかその代償というわけでもないのでしょうが、多少とも人生の機微(きび)を知り、心に複雑な襞(ひだ)が刻まれるに従って、呆気(あっけ)なく涙が頬を伝う瞬間というものが増えたような気がします。ただし、涙が頬を伝うのは、相変わらず悲しさや苦しさの表現では決してありません。敢えて共通点を探すなら、人の心の温かさに触れたとき、健気(けなげ)な生き方に共感したとき・・・といえるでしょうか。他人の人生とそんな風に接点を持ったときばかりではありません。小説を読んでは涙し、映画を観ては涙し、果てはコミックを読んでも涙し…。仮にそれを「泣く」と表現するなら、ぼくは泣き虫になったとさえ言えるほどです。 「涙の数だけ強くなれるよ♪」という歌がありました。ある意味でそれは正しい、とぼくも思うのですが、人は流した涙の分だけ弱くもズルくもなれるのです。だとすれば、その分岐点は一体どこにあるのでしょうか。それは説明に窮する難題ですが、恐らくは涙の色や味や温度(五感で感じるものではなく、心で感じる類(たぐい)のものです)に関係があるのではないかと思うのです。泣いた後を見れば一目瞭然です。ドロドロのぬかるみができて身動きもママならない心を持て余すのか、それとも雨上がりの雲の切れ間のように心に陽が射して、まだ時折滴(したた)る滴の一粒一粒がその光を宿して煌(きらめ)くのか。 もちろん、どんな時だって笑顔でいられたら、それはとても素敵なことです。けれども、これまでの経験と照らし合わせてみても、実際のところなかなかそう思うようにいかず、ぼくらから笑顔を奪うような出来事は本当に後を絶ちません。もちろん、人生笑ってばかりはいられないということはわかっているつもりです。それでもなお、笑顔を絶やさずに生きることの大切さを忘れないでいたいのです。 涙を流すなとか、涙なんていらないというのではありません。時には涙を流すことがあってもいいのです。涙の中から昨日までよりほんの少し輝く笑顔が生まれてくるのだということを、ぼくは信じています。そうでなかったら涙を流す意味がないではありませんか。 君が笑顔を忘れそうになったその時は、どうか思い出してほしいのです。君の周りには、君が一日も早く笑顔を思い出せるように願っている人が、きっと少なからずいるのだということを。もちろん、ぼくもその一人です。 いつも「笑顔」と「元気」を忘れずにいられたら合格。何より君には笑顔が一番似合っている、とぼくは勝手に思い込んでいるのです。 文責:石井

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