第65回~第67回「歴史に学べ」
~「に」と「を」の違い~ 今回の東日本大震災で東北の市町村は、街そのものが消えてなくなるほどの甚大な被害をうけました。そんな中、唯一と言ってもよいほど死者や倒壊がなかった村が存在するのです。岩手県普代(ふだい)村です。人々はこれを「普代村の奇跡」と呼んでいます。 今回はこれについて書いてみましょう。 岩手県宮古市から車で少し行くと、ワカメとコンブの養殖が産業の中心の人口3千人ほどの小さな村があります。今回の震災で、漁港にあった船600隻のうち550隻が流されたり壊されてしまいました。ところが、この村は震災後に船を見に行った人が一人行方不明なだけで、なんと亡くなった人がいないのです。 その理由は一体何か?それは高さ15.5メートルの水門と防潮堤でした。 この防潮堤と水門は、過去の悲劇を繰り返してはいけないと、和村幸得元村長が周囲の反対を押し切り完成させたものでした。 この村は、明治29年と昭和8年の大津波、昭和35年のチリ地震、36年の三陸フェーン大火、41年の集中豪雨と約100年の間に5度の大きな災害を経験しています。日本列島自体が災害の多いエリアですが、それでもこれほどの被害を短期間に受けている地域もありません。 わずか3千人ほどの村で、明治の大津波では1010人、昭和の大津波でも137人の犠牲者をだしています。「なんとかして村人を災害から守りたい」それが歴代の村長の願いでした。この歴代村長の願いを実現したのが和村元村長でした。 この防潮堤と水門が、村民の命と財産を守ったのですが、実は津波は15メートル以上ある水門を5,6メートルも超えてしまったのです。しかし、津波はこの水門に当たると勢いは減殺され、普代川をさかのぼるとやがて止まってしまい、普代村は被災を免れたのです。 防潮堤は昭和43年、水門は59年に完成しますが、総工費35億円超の、当時としては膨大な工事費が必要なことから、「これほど大きな水門が本当に必要なのか」「もっと小さなものでも十分なのではないか」等の反対意見も根強くありました。 ......