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【アーカイブ⑲】幸せを感じる瞬間
たとえばぼくの、一年中で最も好きな季節、5月。 一晩降り続いた雨が名残りなく上がった5月の朝の訪れは、それだけでぼくを幸せにしてくれます。太陽と水から生まれた美しい空の【青】、若葉の透き通るような【緑】。光と陰に縁取られた、ひんやりと湿った新鮮な空気の匂い。 そんな日はお気に入りの半袖を着て街に出ます。ぶらっと立ち寄った馴染(なじ)みの喫茶店で、一足早いアイスコーヒーを注文して、目の裏の痛くなるような表通りの明るさに、ときめく心を押し隠すように、水色のストローでグラスの中の氷をもてあそんだりします。ひんやりと薄暗い店内には珈琲の香り。そして、ぼくはポケットにしのばせておいた、さんざん読み古した藤村の『千曲川のスケッチ』を取り出してパラパラと読み直してみたりするのです。 たとえば5月と並んでぼくの大好きな10月。高い高い空の深い【蒼】と細波(さざなみ)のような絹雲の淡い【白】。【橙色】の陽射しが世界を染め抜くと、街も人もしっとりと落ち着いて本来の輪郭(りんかく)を取り戻していきます。そこへ金木犀の香り、とくれば否が応でも幸せを感じないではいられません。 長くなった夜に、珍しく時間をかけて珈琲を淹(い)れ、懐かしい人の横顔をほんの少し想い出して見たり、誰かに手紙を書いてみたり・・・。 たとえば夜の内に降り出す雪の日も、ぼくをどうしようもなく嬉しくさせます。寝るのが惜しくて長編の小説を引っ張り出してきてゆっくりと読み直してみたりします。冷え込んだ夜、人通りのない公園に早くも雪が降り積もる気配を見せ始めると、朝になれば消えてなくなる夢でも見ているように、ぼくは居ても立ってもいられなくなり、外套(がいとう)を着てマフラーを首に巻くと一人表へ出て、美しく雪化粧された町にワクワクとぼく一人の足跡をつけて回ったりするのです。 翌朝になっても止まずに雪が降り続けているなら、傘も差さずにいつもより早めに家を出ます。肩にうっすらと積もった雪を払って、馴染みの喫茶店の窓際の特等席に座ります。そして、珍しくホットココアなどを注文して、吐息で曇りがちな窓の外で、楽しそうに風と戯(たわむ)れる雪片を飽きずに眺めたりします。 たとえばたとえば・・・、出掛けにのぞいたポストの中に懐かしい友人からの便りを見つけた瞬間や、約束もないのに町や駅で会いたかった大切な人とバッタリ行き会う奇跡。通りかかったぼくを待ち受けていたかのようにタイミングよく信号が【青】に変わることや、切符の発券番号、あるいは買い物の合計金額やおつりがゾロ目だったりすること、それから新しい文房具を買い揃えたときも・・・。 そんなふうに幸せは、いつでもぼくの周りに用意されているのです。けれども、心の病んでいる日は、そんなことにすら気付かずに俯(うつむ)いて急ぎ足で一日を駆け抜けてしまいます。う~ん、余りにももったいない。しっかりと目を開きましょう。しんと耳を澄ましましょう。 そしてささやかな、けれど何物にも替えがたい「幸せ」のひとつひとつを確かに感じながら生きていきたいと心から願ったりするのです。 ......
【暦の話⑳】十三夜
旧暦8月15日の「中秋の名月」からおよそひと月、旧暦9月13日の月を「十三夜」と呼んで同じようにお月見をする習慣のあったことは以前の【暦の話】でも紹介しました。 「十五夜」と「十三夜」、いずれか片方の月を眺めることは「片月見(かたつきみ)・片見月(かたみづき)」と言って、縁起の悪いこととされていました。しかも、この「十三夜」は「十五夜」を眺めた同じその場所から眺めるというルールさえあって、日常的に観月の習慣の希薄になっている現代人にとっては、少しばかり敷居の高い話です。 満月の二日前、満ちる一歩手前のわずかに欠けた月。 以前も紹介しましたが、日本人は、隙もなく完璧なものよりは、むしろ完成の一歩手前の「未完成」に美意識をくすぐられる民族性をもっているようです。 「花は盛りに、月はくまなきをのみ見るものかは。」(徒然草 兼好) 桜の花は満開のときだけが美しいのでは決してなく、例えばようやく咲き始めた桜の枝に瞳を輝かせたり、吹雪のように舞い散る花びらの美しさに心を奪われたりします。だとすれば月も陰りのない満月だけが見るべきものということでもなさそうです。 今年の「十三夜」は10月8日(土)となります。 二週間予報では、どもやら天候不良となりそうで心配ですが、「雲のいずこに月宿るらん」と見えない月に思いをはせるのもまた風情というものかもしれません。 文責:石井
秋のお得な特典!「乗り換え割」「はじめて割」
2学期の君の学び場はファインズだ!! 秋の限定2大特典 新学年を迎えてから夏休みまで目標をもって勉強をしてきたけれど、2学期中間テストではまだまだ目標に届いていない。 もしかして、今の勉強のやり方ではいけないのでは??そう心配に思う中学生はたくさんいます。本人以上に保護者の皆さんは我が子の様子に不安を感じることは多いでしょう。 正直に申し上げれば、自宅で参考書を使って勉強しても、オンラインや通信講座などで勉強しても、集団塾、個別指導塾で勉強をしても、学校のテストに出題される問題は変わりません。一概に環境を変えたからといって急激に成績が上がるということはほぼないでしょう。 それでも、塾に入ったり、塾を変えたりすることで成績が上がるとお考えの方がいらっしゃいます。そして、本当に成績が急上昇したケースもあります。では問題も学習単元も変わらないはずなのに、なぜ環境を変えて成績が上がったり、上がらなかったりするのでしょうか。 実は、秘密はお子様自身にあります。 塾に通うことの最大のメリットはプロが勉強のコーチをしてくれることです。 時には知識や解法を教えてくれて、時には学習ペースの管理をしてくれて、時には隣に座って一緒に集中して勉強する場を作ってくれます。 ......
【アーカイブ⑱】秋の星空
秋の星空はタレントが不足しがちで、夏の星空ほどの賑わいもなく、ましてや冬の絢爛(けんらん)たる星座たちの競演とは比べるべくもありませんが、それでも例えばペガススの大四辺形を見るのは結構好きなぼくです。わずかに狭まっている四辺形の二辺を北に伸ばすと大きなとんがり帽子の三角形ができます。その頂点が北極星の在り処(ありか)を指し示してくれるのをご存知ですか。北極星の道しるべとしてはおおぐま座の北斗七星やカシオペア座がポピュラーですが、ペガスス座も実は北極星のポインターとなっているのです。一度試してみてください。 今日は出先から深夜になって帰宅したために、この秋最初のオリオン座を見ることができました。折りしも牡牛座のプレアデス星団(通称スバル)が南中しています。 オリオン座のベテルギウス、おおいぬ座のシリウス、こいぬ座のプロキオンを結ぶ冬の大三角こそ有名ですが、シリウスを起点にプロキオンへ、そしてベテルギウスへは向かわずに、天頂方向へ双子座のポルックスを経由してぎょしゃ座のカペラまで、そこから牡牛座のアルデバランへ折り返してオリオン座のリゲルを経由し、シリウスへと一周すると冬の大六角もしくは冬のダイヤモンドと呼ばれる壮大な星図が描けるということを知っている人物にはなかなかお目にかかりません。 かつてエマートンという詩人が「星空が千年に一度しか見られぬものとすれば、人類は、昔は夜空に神の宮殿が現われたことがあるそうだという伝説を言い継ぎ語り継ぎするだろう」と書いたのもなるほどと頷けます。 今年の中秋の名月は9月18日。明後日の日曜日です。 10月に入るとジャコビニ流星群に始まって、オリオン座流星群、牡牛座流星群、11月の獅子座流星群、そして毎年最後を飾る12月の双子座流星群まで、まるで運動会のリレーのように入れ替わり立ち代わり流星群の活動が活発となります。 たまにはゆっくりと星空を見上げてみてはいかがでしょう。 運よく流れ星を見つけることが出来るかもしれません。 ※2022年の中秋の名月は【暦の話⑲】でご紹介した通り9月10日でした。 ......
【コラム㉗】センチュリー・プラント
100年に一度しか咲かない花という意味で「センチュリー・プラント」と呼ばれる「アオノリュウゼツラン」ですが、実際には30年~50年くらいで開花するそうです。 成長時は人の背丈ほどもない、大きなアロエのような肉厚でトゲのある葉を広げていますが、開花が近づくと、中心から一本の木のような茎を遥か見上げるほどに高く伸ばしていきます。 開花準備の始まっていないアオノリュウゼツランの葉(サンプル写真) 今回紹介するのは、沖縄県那覇市首里にある世界文化遺産「園比屋武御嶽石門(そのひゃんうたきいしもん)」のアオノリュウゼツランです。 園比屋武御嶽石門の向かって右手に移植された「アオノリュウゼツラン」 1986年にこの場所に移植されてから36年目、2022年6月に高く茎を伸ばして開花準備が始まったことを知らされ、8月下旬に訪沖予定があったぼくは大きな期待を寄せていました。ところが、8月に入ってすぐに、ついに開花したとのニュースが流れ、タイミングが合わなかったことに一時はがっかりもしました。 けれども、8月25日に首里城を訪れてみると、何とアオノリュウゼツランの花はまだ咲き続けていたのです。 園比屋武御嶽石門とアオノリュウゼツラン 守礼門をくぐって歓会門へと向かう緩やかな坂道の途中に園比屋武御嶽石門はあります。 写真は2022年8月25日の園比屋武御嶽石門で、右手に高く伸びているのがアオノリュウゼツランの花です。過去に一度も開花の記録がないことから、1986年にこの場所にアオノリュウゼツランが移植されて以来、記念すべき初の開花となります。 ......
【アーカイブ⑰】頑張る君の応援団
学校の教科書でも塾のテキストでもいい、それが職業である学校の先生や塾の講師を除けば、大人になってから必要に迫られて自分自身のためにそれらを読み解いている人はいません。中学受験を間近に控えた小学6年生が、一生懸命に九九を勉強しているなどということもありません。なぜでしょう。 人との出会いも同じことですが、物事にはタイミングというものがあります。そのタイミングを逃してしまえば、人生のある瞬間における自身の可能性を狭めてしまうことすらありうるのです。中3になって慌てて中2のテキストを引っ張り出して復習するような生徒も中にはいるけれど、基本的には、中2のテキストは中2で出会って、理解できたかどうかにかかわらず、たった一年間しか付き合えない、そして、やがて手放してしまえば二度と出会うことのかなわない大切なものなのです。 九九を正確に覚えた生徒に、二桁や三桁の掛け算、あるいは割り算という新しい世界が開けてくるように、中1の時には中1の、中2の時には中2の学習内容を正確に理解できた生徒にだけ、受験という自分自身を試すための新しい展望が開けてくるのです。中3になってからではタイミングを逸してしまう大切なことが中1や中2、それぞれの一年間に用意されています。それらを正しくクリアしないで過ごしてきた生徒の夢が絵空事で終わる可能性は、残念ながら高いと言わざるを得ません。 「いつか」ではなくて大切なのは「今」です。自分自身のために努力することが、仮に何の自慢にならないとしても、努力しないことに比べて努力することが恥ずかしいことであるなどということは決してないのですから。ましてや頑張っている人を遠くから眺めて冷笑したりするつまらない人間にだけはなって欲しくないのです。 受験勉強は、人生に欠かすことのできない本当の勉強ではないかもしれないけれど、それすら挑戦できるタイミングというものがあります。その資格を有している「今」、それぞれの夢の実現のために自分自身を奮い立たせなくて、一体いつするというのでしょう。「今」を逃したら手遅れになるかもしれない大切なひとつひとつのことと、日々真剣に向かい合う君であって欲しいと願っています。 Finesは、そしてぼくは、頑張る君の応援団です。人の目など気にせずに額に汗する君を、応援しないではいられません。 文責:石井





