【コラム㉟】冬の初めの日に……
冬が好きだ、と言った生徒がいました。 初冬のキンと冷えた空気が、冷たい水で顔を洗った時のように、魂を目覚めさせてくれる感覚がたまらなく好きだと彼女は丁寧に説明してくれました。 身を切るような風に背中を丸めるのではなく、潔く背筋を伸ばして歩きたい、と。 風は冷たいけれど、爽やかな一日です。 今となっては確かめるすべもありませんが、それはちょうど今日のような天気の日を指していたのではないかと思うのです。 校舎から見える南東の空 ......
冬が好きだ、と言った生徒がいました。 初冬のキンと冷えた空気が、冷たい水で顔を洗った時のように、魂を目覚めさせてくれる感覚がたまらなく好きだと彼女は丁寧に説明してくれました。 身を切るような風に背中を丸めるのではなく、潔く背筋を伸ばして歩きたい、と。 風は冷たいけれど、爽やかな一日です。 今となっては確かめるすべもありませんが、それはちょうど今日のような天気の日を指していたのではないかと思うのです。 校舎から見える南東の空 ......
観月の楽しみは、旧暦8月15日の十五夜(中秋の名月)と旧暦9月13日の十三夜の2回あります。10月10日の十夜を含めて3回とも言われていますが、今回の表題である「片月見(かたつきみ)・片見月(かたみづき)」は、8月15日と9月13日の2日のうち、どちらか一方だけの観月を指します。 細かいルールでは、8月15日に中秋の名月を眺めたのと同じ場所で9月13日に再び月を眺めなければならないとされていて、それを違えると「片月見・片見月」といって縁起が悪いと考えられていたようです。 十三夜は、満月の二日前の月ですので、月の左側の縁がわずかに陰っている未完成の月です。しかし、思い返せば日本人は、この未完成で不完全なものをこそ愛でる独特の世界観を持っているようです。 「花は盛りに、月はくまなきをのみ見るものかは。」(徒然草 兼好) 「徒然草」の原文では、このあと「今にも咲きそうな桜の梢や、すっかり花が散って、しおれた桜の花びらが点々とある庭などにこそ見る価値が多い」という内容が続きます。 書画の世界でも、日本人はシンメトリーの完全な構図より、左右非対称な構図に、また描かれたものだけでなく描かれない余白に美を見出します(余白の美)。表現されるものと表現されないものの絶妙なバランス。そうして想像力の働く余地を残す奥床しさをこそ価値あるものと捉えてきたのです。 余談 理科の学習で覚える月の名前は、新月・三日月・上弦の月・満月・下弦の月の5つですが、十五夜の満月を過ぎて、16日目の月、17日目の月……と日ごとに変化していく月の異名をご紹介して筆をおく(キーボードを打つだけなのに「筆をおく」というのも妙な表現ですが)ことにします。 ・十六夜 いざよい ......
一人で旅をするようになったのは、一体いつの頃からでしょうか。 気の合う仲間たちと大勢で楽しく旅行をするのも、それはそれで充分に魅力的なことではありますが、時折ふと一人きりで旅に出たくなることがあるのです。 永六輔の「遠くへ行きたい」に歌われたように、見知らぬどこかの街角で愛する人とめぐり合うというファンタジーへの淡い憧れがないと言えば嘘になるでしょうか。けれども、一人で旅をするのは、それを期待してのことでは決してありません。旅で出会うのは風景や人ばかりでなく、おそらくは自分自身でもあり、そうして自分自身と向き合うことの必要性がぼくを一人旅へといざなうのではないかと考えたりもします。 ジャズのスタンダードナンバーである「My favorite things」のオーケストラ・アレンジにのせて、JR東海の「そうだ 京都、行こう」のCMがスタートしたのはもう随分と前のことになります。当時、キャンペーンの一環として「京都クラブ」の限定会員募集があり、早速応募したぼくは見事に当選して会員証と会員規約とを手に入れました。会費無料でありながら、イヴェント情報満載の季刊ガイドブックや会員限定のクーポン券やサービス情報等が随時送られてくるという魅力的な企画です。それが契機(けいき)となって、一人旅へ、それも京都へ、と行き足がついたことは言うまでもありません。多い年には四度も京都を訪ねました。 さてさて、今年の修学旅行シーズンもいよいよ後半戦へと突入しました。多くの中学校が夏前に済ませる中、まるで時差通勤のように一部の学校では2学期を待っての修学旅行となるわけです。 中学の修学旅行といえば「京都・奈良」と相場が決まっています。ゆえに生徒のお土産は、多少のバリエーションはあるものの、やはり「生八橋」の頻度(ひんど)が高く、5~6月はひたすら「生八橋」を消費する日々を重ねたのでした。 ぼくが初めて京都を訪れたのも、もちろん中学校の修学旅行でした。残念ながら自ら企画を立てたわけでもない無我夢中の団体旅行において、印象に残っている風景はそうそう多くはありません。 ......
仕事の合間に受付けの野崎さんと話していて、思わず笑ってしまった話を紹介します。 野崎さんが町で拾った、ちょっと可笑(おか)しくて、けれどもほんの少し素敵な話です。想像力を働かせて、その情景を思い描いてみてください。 学校の帰り道でしょうか。小学4年生くらいの男の子が歩いています。その後ろを追うように小学6年生くらいの女の子がついていきます。 一体どんな話の続きなのか、年上の女の子が男の子をからかうように「キモ~イ!」とちょっかいを出します。すると年下の男の子が、少し怒ったように「キモイってなんだよ」と言い返します。 「キモチワルイを省略した言葉よ」と女の子。 「だったら初めからキモチワルイって言えばいいだろ。そんないい加減な言葉遣いをするから日本語がどんどんだめになっちゃうんじゃないか」と男の子。 どうですか。小学4年生の男の子と小学6年生の女の子というキャスティングが最高ですね。その年頃の正義感と精神年齢の高さで女の子が男の子を言い負かすのでもなければ、年上が年下をたしなめるのでもなく、年下の男の子が一人前の語り口で、それも「キモイ」と言われたことへの直接の反発ではなく、むしろ「キモチワルイ」と言われることについては納得して受け入れる覚悟を示しつつ、「日本語の乱れ」などという正論を吐いて話を自分の土俵にのせてしまうところが絶妙です。 ついでですが、最後に、ぼくがこれまでに町で偶然耳にした言葉の中でも、とっておきの一言を紹介することにしましょう。この言葉の奥深い可笑しさと恐さは、にわかに理解できないかもしれませんが、じっくりと味わってみてください。 「コンタクト、似合わないからやめた方がいいよ」
今日はかつての教え子をひとり紹介しようと思います。 彼は桐朋中学の受験に失敗し、押さえの法政大学中学校へ進学しました。 ご存知の通り、法政大学中学校は、原則として全員が無試験で法政大学高校へ、そして90%以上の生徒が法政大学へと内部進学するエスカレーター式の附属校です。例えば2004年を例にすると、卒業生266人の内243人が法政大学へ、残り23人の内9人が海外留学を含む他大学への進学を果たすのみです。 しかし、彼の挑戦は中学受験で終わりはしなかったのです。中学・高校と6年間も法政大学中高へ通いながら、一度としてぶれることなく大学受験に照準を合わせ続けた結果、やがて現役で国立の東京工業大学(世界ロボットコンテストで有名な大学です)へと進学を果たします。桐朋や開成といった大学受験への流れが出来上がっている学校であれば、さほど驚くことではありませんが、受験とは無縁の学友に囲まれて、高い志を見失うことなく歩き通した孤高の姿は尊敬にすら値します。 大学では純粋数学の世界へ足を踏み入れ、やがてさらなる飛躍を目指して東京大学の大学院へと進み、麻布高校で数学の非常勤講師をしつつ、大学院で自らの研究を進めるという日々を送るようになりました。 小学生の頃の彼はどこかはにかみがちなところのあるただただ真面目な性格の生徒でした。派手さがない分、瞬発力に欠けるところもありましたが、コツコツと目標に向かって努力し続ける姿勢は、彼のそんな未来へと途切れることなく続いていたと言えなくもありません。 立てた目標が必ずしもかなうわけではない現実を充分に知った上で、なおかつ高い目標を掲げて努力することの大切さを口にするのは、一方で、たどりつく高い到達点には必ず「遥かな目標」とそれに向けた「深い決意」と「絶え間ない努力」が必要であるということを知っているからです。 目標は達成できたり達成できなかったりするものですが、「目標」を達成するにはまず「目標」そのものの存在が不可欠であるという当たり前のことを、もう一度思い出したいものです。 文責:石井
国立にある某塾でのかつてのできごとです。 徐々に成績を上げ、クラス変えでひとつ上のクラスへと移って、担当を離れてしまった小学校5年生の女の子が、しばらく経ったある日の授業後に、職員室のぼくを訪ねてきました。 「今日で塾をやめることになったの」と彼女。 驚いたぼくは理由も分からないまま、それでも瞬時に頭を働かせて何とか彼女がやめずに済む方策がないものかと考え巡らしました。が、今は直接担当しているわけでもないぼくのところへ、相談ではなく報告にきたことが、家族ともさんざん話し合った末の最終結論を意味していることに思い至って、ぼくはいたずらに彼女の心をかき乱す愚を犯すまいと、静かに「そうか、残念だよ」と応えました。それから仕事の手を止めて彼女を送るべく、並んで玄関に向かったのです。その、時間にしてわずか30秒程の間に、ぼくは滅多にない勤勉さで頭を働かせて、彼女に贈るべき言葉を精一杯紡ぎ出しました。そして、玄関で、真っ直ぐにぼくに向き直った彼女に右手を差し出して、軽く握手した後で、ぼくは「でもね、きっと、また、会えると思うよ」と静かに、けれども真っ直ぐな気持ちでそう言ったのです。すると彼女は瞳を輝かせて大きく頷いた後で「うん、きっと、私もそう思う」と言ったのでした。その彼女の言葉と笑顔はとてもステキで、ぼくは心の中で文句なく合格点をあげたのでした。 その大切な約束を忘れたことはありませんでした。もちろん、ぼくは彼女との再会を信じ続けていたのです。彼女の歓心を買うための、その場しのぎで守られることのない約束をしたつもりなど、これっぽちもありませんでした。約束した以上、もし彼女との再会がかなわなかったとしたら、それは彼女の気持ちを裏切ることにもなり、ぼくはぼく自身にすっかり失望しかねない崖っぷちの状態です。そうでなければ、約束など初めからしなければ良いのですから。 で、それから一年半。 その当時、国立を中心に5つの校舎を掛け持っていたぼくが、国立校での授業に向かうべく国分寺の下り中央線ホームに下りて、読みかけの文庫本のページを開きかけたときでした。後ろからぼくを追い越して、わずかに5メートル先で立ち止まった制服姿の女子中学生の存在が、どういうわけか気に掛かって視線をあげたぼくは、とうとうその約束の少女を見つけたのです。目を丸くして驚く彼女の元に駆け寄り、「やっと会えたね」と言ったぼくの言葉に、クスッと笑いを返した彼女は喜ぶというのとは微妙に違う表情で「良かった」としみじみ言ったのでした。 「ずっと、会えると信じてはいたけれど、ほんと、良かったよ」と応えたぼくの心を満たしていたのもやはり「喜び」の気持ちではなく、彼女を裏切らずに済んだということ、そして自分自身に失望せずに済んだということに対する「安堵」の気持ちでした。 それから国立までのわずか二駅の間、久しぶりのぼくらは言葉を選び選び、ささやかに語り合ったのでした。そうして仕事に向かうぼくと帰宅する彼女は駅前のバス停で手を振って別れました。 そして、その別れ際の彼女の「じゃ、また」という言葉に、またしてもぼくは、文句なく合格点をあげたのでした。 ......
10月22日は、ぼくにとって忘れることのできない特別な日です。それは、ちょうど一年前となる2004年10月22日が、久しぶりに開催された中学時代の同窓会の日であったからです。 中学を卒業して、もう随分と長い時間が流れました。 それから一言では語り尽くせない様々な季節を経て、今日の「ぼく」がここにこうして在ります。けれども、「ぼく」という人間の輪郭を形成したかけがえのない季節が、あの中学時代であったというのは、これまで幾度も口にしてきたことではありますが、本当に逆立ちしても疑いようのない事実なのです。 ----------------------------------------------------------------------- 入り口で受付を済ませて座敷へ上がると最初に飛び込んできたのは彼の笑顔だった。 ぼくは迷わずに真っ直ぐ彼の元に向かう。挨拶もそこそこにハイタッチ。そしてぼくらはガッチリと握手を交わした。その手が働くものの手であるということに嬉しさを隠せないぼくだ。 1年の三学期に転校した先の中学で知り合ったのは彼が一番最初だった。 寒い体育館で行われた始業式。担任となるどこかぼんやりした印象の教師に導かれるまま列に並ぶと、前後して並んでいた目のクリッとした綺麗な長髪の男子生徒が「何て名前?」と話しかけてきた。一瞬警戒はしたものの、不自然に聞こえないように気を使いつつぼくは「石井」と名乗った。「おっ、近いじゃん」と言って笑った彼が「伊藤」という名であることを知って、近いって最初の「い」だけじゃないかと思いはしたものの、彼の人懐っこい笑顔に負けて一緒に笑い合った覚えがある。 それからのぼくらは、何をするにも、いつも一緒だったような気がする。 ほとんど存在すらしていなかった男子バレー部をぼくらが中心になって立ち上げた。 ......
思い出す少年時代の風景といえば、なぜか夏。 見上げるような入道雲が空の一番高いところでギラッと光って、仰ぎ見るとクラクラ目眩(めまい)すら感じます。暑い暑いカンカン照りの日には決まってバケツをひっくり返したように激しい夕立ちがやってきます。緑の木々や電信柱や大小さまざまな家並みに白い飛沫(しぶき)を上げる激しい夕立ち。雨宿りをするのではなく、ぼくらはむしろその大粒の雨に叩かれて一日のほてりを洗い流したものでした。そして夕立ちの後に嗅いだむせ返るような夏草と土のにおい。神社の広い境内にふた抱えもある立派なケヤキの木があって、通り過ぎた夕立ちの代わりに気の遠くなるような蝉時雨が降り注いでいました。 あるいはお祭りの夜。はちきれそうに高鳴る胸。居ても立ってもいられずに屋台の立ち並ぶ目抜き通りへと我先に駆け出します。金魚すくい・ヨーヨー釣り・綿菓子・ソースせんべい・あんず飴・林檎飴・たこ焼き・焼きそば……。下駄の音も軽やかに浴衣姿の同級生がとても眩(まぶ)しく見えたのもそんな時です。行水の後か、まだ乾ききらない髪をひとつに束ねて、ちょっと澄ました笑顔で「こんばんは」とよそ行きの挨拶をかけられて、それですっかり上気したぼくらは、わけもなく宵闇の町を跳ね回って、公園の鉄棒にぶら下がったり、ジャングルジムに駆け上ったり、盆踊りのやぐらの下に滑り込んだり……。 子供の頃、花火大会の日はやけに胸が高鳴り、夕飯を早めに済ませて一風呂浴びて、友達の迎えに来るのを今か今かと待ち遠しく思ったものでした。 打ち上げ花火には今も心ひかれます。けれども一方で「線香花火」に限りない愛着があることも昔と変わりはありません。 線香花火に火をともします。 すると、小さな胸を満たしていたはずの楽しかった夏の時間も、心の片隅でかすかに芽生えはじめた秋の予感も、何もかもがすっかり消えて、しんとした静かな気持ちがぼくを包み込みます。 点火と同時に噴き出した炎が消えると溶けた金属と火薬がブーンと震えながら火玉を作っていきます。地球のように自転しながら次第に成長していく火玉。そこへ思い余って弾けるように最初の枝分かれが来ます。 ヂッ。 風を背負って息を凝らして、生まれたばかりの火玉を、いとおしむように、いたわるように一心に見つめます。 ......
「2005年8月6日、土曜日。晴れ。 世界陸上ヘルシンキ大会が開幕する日。渋谷の公園通りに「アップルストア」がオープンする日。炎の三ツ星シェフ堺正章の誕生日。ハム太郎の誕生日……。 そして恐らくは記録にも記憶にも残らない、ぼくの平凡な一日。 講習の狭間のこの休日を、足りない睡眠時間のつじつま合わせに昼過ぎまで寝て過ごすつもりが、午前8時15分の長々と響くサイレンの音で起こされる。」 そう、1945年8月6日。60年前の今日は、広島において人類が初めて核兵器を体験した日です。にもかかわらず、戦争を本当には知らないぼくの日常生活の平凡なひとコマと、社会科の教科書で学んだ歴史のひとコマとが、どうしてもきれいに重なり合わないのです。繰り返してはならない歴史を正しく学び、今日へとつなげる努力が大切であるということは言うまでもありません。毎年訪れるこの日が、ぼくの人生の大切な区切りとならないのは悲しむべきことです。けれども、それは必ずしも「広島に原爆が落とされた日」という意味である必要はありません。ぼくの一生の中の、通り過ぎてしまえば二度と戻らないかけがえのない一日として、今日と言わず、昨日もそして明日も大切に胸に刻んで生きていきたい。そういうことです。 悲しいことに人類は、「昨日」の反省を「今日」に生かすという知恵を何処かに置き忘れでもしたかのように、ことあるごとに愚かな「戦争」へと傾斜し、おかげで心ある人々は悲しみの海に溺れかけています。戦争のない時代を創ろうという願いは、もはやメルヘンの世界にも生存権がなくなってしまったようです。けれども、いや、だからこそ、考え続けなければならない、願い続けなければならないのです。 「平和な時代」「戦争のない時代」というイメージを、今よりほんの少しでいいから具体的に、誰もが思い描き、心に深く刻んで生きるなら、少なくとも今よりひどい時代へと加速度的に転がり落ちていくことに対するつっかえ棒くらいにはなるかもしれません。 今日も暑い一日に、なりそうです。 *********************************** ※古い文章ですみません。 ......
昨年再開された「川越 百万灯夏祭り」が、今年も7月29日(土)~7月30日(日)に開催されました。 残念ながら夜まで授業が入っていたため参加できませんでしたが、写真の整理を兼ねて去年同僚や卒業生たちと行った時の様子を紹介しようと思います。 時の鐘 川越百万灯夏祭りの起源は古く、川越城主松平大和守斉典(なりつね)侯が嘉永2年(1849年)に病没した後、三田村源八の娘、魚子(ななこ)が、「三田村家が斉典侯から受けた恩義」に報いるため翌嘉永3年(1850年)の新盆に切子灯籠をつくり、表玄関に掲げたことをきっかけに町中をあげて斉典侯の遺徳をしのび、趣向をこらした見事な提灯まつりを行ったことに端を発します。 その後、長い中断の期間を挟んで、昭和35年の夏に川越市・観光協会・川越商工会議所の主催で復活し、小江戸川越の夏の風物詩として今に続いています。 氷川神社の風鈴 ......