国分寺ブログ2021-05-24T15:38:56+09:00

ブログ

2412, 2022

【コラム㉚】Merry Christmas

By |2022年12月24日|Categories: 国分寺ブログ|Comments Off on 【コラム㉚】Merry Christmas

   今夜はクリスマス・イヴですね。  過日【アーカイブ】にて『クリスマス・ボックス』の紹介をしましたが、その最後に「この世で最初のクリスマスの贈り物」は一体何だと思いますか、という質問がありました。  すっかり忘れてしまっていたぼくは、校舎の本棚から『クリスマス・ボックス』を引っぱり出して、十数年ぶりに読み返してみたのです。もちろん答えにたどり着きました。その答えは『愛』でした。    さて、ぼくの一押しの女性ボーカルグループ<Little Glee Monster>の『愛しさにリボンをかけて』という名曲に、「サンタクロースは本当にいると大人になって分かった。プレゼントではなく、大切な人にこの愛を伝えたくなる<気持ち>を配っている。」という意味の歌詞があります。  日本固有の文化・習慣ではないとしても、大切な人への思いやお世話になった人への感謝を新たにする1日になるとすれば、クリスマスも捨てたものではありませんね。

1712, 2022

【アーカイブ㉓】クリスマス・ボックス

By |2022年12月17日|Categories: Uncategorized, 国分寺ブログ|Tags: |Comments Off on 【アーカイブ㉓】クリスマス・ボックス

2005年11月15日に講談社文庫から発刊されたリチャード・P・エヴァンズの『クリスマス・ボックス』を読みました。温かくて、切なくて、まるでイヴの夜に音もなく降り積もる雪のように静かに心に染みてくる話でした。 国分寺スクールの表玄関に今年もクリスマス・ツリーが飾られました。 クリスマス、そして年末に向けて、街も少しずつ飾り立てられていきます。 毎年12月1日から、久米川駅南口ロータリーの枝振りも見事なけやきの木にイルミネーションが施され、季節の風に凍えてしまいそうな心にパッとひと時の華やぎを与えてくれます。近隣では国立の大学通りにある銀杏並木のイルミネーションが見事ですね。 一方で、原宿表参道のクリスマス・イルミネーションは、地元住民の反対運動が起こり、現在は廃止されています。確かに、人工物ではなく生きた樹木等への電飾は、環境負荷という観点から今一度考え直さなければいけない問題を含んでいます。その点への配慮もあってでしょうか、六本木ヒルズやお台場等のイルミネーションは発光に発熱を伴わないLED(発光ダイオード)を使用しているようです。 美しいものへの憧憬と命に対する敬虔さ。恐らくはどちらも失くしてはならない大切なものですね。けれども、そんなふうに考えるまでもなく大切なことのひとつひとつを、ぼくらはうっかり見過ごして暮らしていたりします。『クリスマス・ボックス』を読むと、そのことがよくわかります。 「この世で最初のクリスマスの贈り物」は一体何だと思いますか。答えは本書の中にあります。機会があれば是非お読み下さい。   ※2022年現在は、原宿のイルミネーションも復活し、表参道のケヤキ並木がシャンパンゴールドの優しい光で彩られています。 文責:石井

412, 2022

サッカーWカップに勇気をもらう

By |2022年12月04日|Categories: Uncategorized, 柿生ブログ|Comments Off on サッカーWカップに勇気をもらう

連日のサッカーWカップの結果を見て、ランキング上位の国を下位の国が次々に破っていくのを見、また三苫選手のゴールラインギリギリからの折り返しパスの様子などを見て、最後まであきらめずに努力し続けることの大切さを改めて感じました。 校舎では、中3生の内申提示をもとに3者面談を実施しました。成績を3ポイント以上ノガした生徒もいますが、 前期で落とした内申を挽回できないままの生徒もあり、弱気になっている保護者と生徒に願書を提出するまでまだまだ学力を伸ばせることを伝えました。サッカーWカップでの日本チームや上位の国を倒した国のチームのように、最後まであきらめずに努力を続けて目標の高校に合格してほしいものです。

112, 2022

【アーカイブ㉒】冬の花火

By |2022年12月01日|Categories: 国分寺ブログ|Comments Off on 【アーカイブ㉒】冬の花火

毎年12月3日に開催される「秩父夜祭」に通うようになって、もう随分と長い年月が流れます。 「秩父夜祭」といえば、飛騨高山・京都の祇園祭と並んで日本三大曳山(ひきやま)祭りのひとつに数えられるほどの盛大な祭りです。 ぼくが、初めてこの祭に足を運んだのは何と高校時代のことでありました。 西武秩父駅を中心とする商店街の、道という道に出店の屋台がひしめき合い、中央の広場には見世物小屋・お化け屋敷・巨大迷路のテントも立ち並び、秩父市の各町内から集まってきた屋台…いわゆる山車(だし)のことを秩父では屋台と呼ぶのです…が勇壮に陣取ります。お囃子の太鼓の響きは、まるで地球の鼓動のように、地面から直に足に伝わり胸に届きます。一年をこの日のために準備する地元の人々の熱気が、堰を切ったように祭りを熱く盛り立てていきます。 日が落ちると冬の打ち上げ花火が始まります。それは言葉に尽くせない美しさです。激しい衝撃や深い感動が言葉を失わせることがあります。けれども、それは決して沈黙の内に無為に横たわることを意味しません。 冬の花火 ― 凍て付いた夜空に球形に拡大していく時間の軸。 まるでスローモーションのように夜空をついて上昇する憧れにも似た光の帯。二尺玉の、想像を超えた体積の創出。 最早、祭囃子の鼓動に似た高まりも、見世物小屋の呼び込みのしわがれた述べ口上も、出店の裸電球の橙色の連なりも、群集の人いきれも、すべてがぼくを去り、それらを満たす凍て付いた空気を伝って直接胸に届く音と光と、ぼく自身の目と心とだけが、一本の張り詰めた糸で結ばれていきます。大空に散りばめられた火の花弁が冬の大三角と重なり、新しい星座の幾何学模様を描き出します。その美しさは恐いほどです。 ......

1911, 2022

【アーカイブ㉑】赤い風船

By |2022年11月19日|Categories: 国分寺ブログ|Comments Off on 【アーカイブ㉑】赤い風船

冬曇りの灰白色(かいはくしょく)の空に、一体誰の手をすり抜けたのか、フワリと放たれたひとつの赤い風船。 泉町一丁目のバス停に差し掛かったところで、ぼくは足を止めて、あるともない風に運ばれて11月の空に消えていくその赤い風船を見送った。そんなオープニング・シーン。 それがきっかけとなって、ぼくの頭の中にひとつのメロディが流れ始める。 ♪  空にのぼって消えてゆく、子どもの赤い風船ひとつ 遠い昔の思い出が 空にポツンと消えてゆく  ♪ 2005年11月6日に行われた「国分寺祭り」に向かう道々、そうしてぼくの頭の中で止まずに繰り返したのは、原宿・表参道を舞台とした吉田拓郎の「風の街」という、もう随分と懐かしい歌だ。 休みの日だというのに、ぼくにしては珍しく早くから起き出したのには訳がある。国分寺の各中学校の吹奏楽部が合同バンドを組んで、「国分寺祭り」のステージに上がると聞いていたからだ。中学3年のメンバーこそ引退したものの、FINESには国分寺1中と2中に合わせて6名の吹奏楽部のメンバーがいる。 都立・武蔵国分寺公園の入り口で、制服姿の中学生にパンフレットを手渡される。その簡単な地図でステージの位置を確認すると、冬の初めのひんやりと冷たい空気を震わせて力強く響く大太鼓の演奏を横目に、いくつものテントをすり抜けて、ぼくは真っ直ぐに中央の広場へと向かった。思ったよりも人出は多い。 ......

1011, 2022

【アーカイブ⑳】信じるべきか疑うべきか

By |2022年11月10日|Categories: 国分寺ブログ|Comments Off on 【アーカイブ⑳】信じるべきか疑うべきか

昔、ある知人とした議論の話です。 ぼくは、これまでの人生を通して、初対面の人でも特別な先入観がない限り好きになれたらいいと思うし、まずは信じるところからスタートするという癖(くせ)がいつの間にかついてしまったのです。それはもう「生き方」の問題であって理屈ではありません。けれどもその友人は、初対面の相手なら表面上は笑顔を繕(つくろ)っても、まず警戒し疑ってかかるというのです。 二人で長い時間話し合ってみた結果、彼の考え方はそれなりに合理的で現実的であることがわかりました。もっとも、合理的で現実的なものの見方・考え方にぼくが価値を認めるかどうかは別の話です。 彼の言い分によればこうです。もし仮に初対面のその人が予想通り信用できない相手だと判明したとき、初めから疑ってかかった彼は「やっぱり」と納得はするけれども、そのことで傷付くことはありません。逆に予想が外れて相手が信用に値する人物だった場合には、予想を裏切られた落差も手伝って、とても得をした気分になる<らしい>のです。一方、信じて裏切られれば傷付くし、裏切られなかったとしてもそれで喜びが増すこともないのだから、疑ってかかるに越したことはないというわけです。 初めに書いた通りぼくに理屈があるわけではありませんでしたが、折角だからと反論を試みることにしました。 彼が言うように、仮に自分が傷付きたくない気持ちを出発点にしたとしても、ぼくはやはり人を信じてかかることを選びます。何故なら、裏切られてできた心の傷よりも、人を信じることができない哀しい自分自身の姿に傷付くことの方が、ぼくにはよっぽど堪えるに違いないし、それはもしかしたら致命的な傷となりうるからです。さらには、そんなふうに始まった人との交わりが、互いを心から信頼しあう掛け替えのないものになりうる保証がないからです。それに、裏切られてできた心の傷なら、その間に心を通わせることのできたたくさんのステキな仲間たちとの時間がいつだって簡単に癒(いや)してくれるではありませんか。 もちろん生き方は人それぞれだから、あえて決着をつけるべき問題ではないかもしれません。ただ、その時初めてそんな思いを言葉にしたことで、ぼくは自分の生き方というか在り方が、少しだけはっきりと見えてきたような気がしたものでした。 蛇足だけれど、その友人の生活信条は「不言実行」なのだそうです。 そいつはいいぞ、と思ったら首尾一貫、言わずに実行すれば褒(ほ)められるし、仮に実行しなくても責められる道理がないからだと聞いて、なぜかがっかりした記憶があります。

Go to Top