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【アーカイブ⑥】涙の数だけ強くなれるよ
世の中には涙の枯れ果ててしまった人もいて、それは紛(まぎ)れもなく不幸な人だろうけれど、涙を道具にして世の中を渡っていく術(すべ)を身に付けてしまった人はもっと不幸だ、と思うのです。涙は、枯れても、温度を失ってもいけないのです。 少年時代、人前ではおよそ泣いたことのないぼくでした。隠れて泣くことすら数えるほどで、それも悲しさや苦しさの表現では決してなく、敢(あ)えて言うなら自分自身の不甲斐(ふがい)なさや悔しさに対する激しい憤(いきどお)りの思い余っての露出だったように思えるのです。 泣くことも、そして怒ることも下手な人間が上手に笑えるものか・・・という気がしないでもありませんが、少年時代のぼくはいつも仲間たちの真ん中で無邪気に笑い転げていました。家庭に、敢えて居場所を作らなかったぼくを支えた「仲間」という存在が、辛うじてぼくの笑顔を保障してくれたという訳です。 今では自分自身の不甲斐なさや悔しさに涙することもほとんどといっていいほどなくなりました。まさかその代償というわけでもないのでしょうが、多少とも人生の機微(きび)を知り、心に複雑な襞(ひだ)が刻まれるに従って、呆気(あっけ)なく涙が頬を伝う瞬間というものが増えたような気がします。ただし、涙が頬を伝うのは、相変わらず悲しさや苦しさの表現では決してありません。敢えて共通点を探すなら、人の心の温かさに触れたとき、健気(けなげ)な生き方に共感したとき・・・といえるでしょうか。他人の人生とそんな風に接点を持ったときばかりではありません。小説を読んでは涙し、映画を観ては涙し、果てはコミックを読んでも涙し…。仮にそれを「泣く」と表現するなら、ぼくは泣き虫になったとさえ言えるほどです。 「涙の数だけ強くなれるよ♪」という歌がありました。ある意味でそれは正しい、とぼくも思うのですが、人は流した涙の分だけ弱くもズルくもなれるのです。だとすれば、その分岐点は一体どこにあるのでしょうか。それは説明に窮する難題ですが、恐らくは涙の色や味や温度(五感で感じるものではなく、心で感じる類(たぐい)のものです)に関係があるのではないかと思うのです。泣いた後を見れば一目瞭然です。ドロドロのぬかるみができて身動きもママならない心を持て余すのか、それとも雨上がりの雲の切れ間のように心に陽が射して、まだ時折滴(したた)る滴の一粒一粒がその光を宿して煌(きらめ)くのか。 もちろん、どんな時だって笑顔でいられたら、それはとても素敵なことです。けれども、これまでの経験と照らし合わせてみても、実際のところなかなかそう思うようにいかず、ぼくらから笑顔を奪うような出来事は本当に後を絶ちません。もちろん、人生笑ってばかりはいられないということはわかっているつもりです。それでもなお、笑顔を絶やさずに生きることの大切さを忘れないでいたいのです。 涙を流すなとか、涙なんていらないというのではありません。時には涙を流すことがあってもいいのです。涙の中から昨日までよりほんの少し輝く笑顔が生まれてくるのだということを、ぼくは信じています。そうでなかったら涙を流す意味がないではありませんか。 君が笑顔を忘れそうになったその時は、どうか思い出してほしいのです。君の周りには、君が一日も早く笑顔を思い出せるように願っている人が、きっと少なからずいるのだということを。もちろん、ぼくもその一人です。 いつも「笑顔」と「元気」を忘れずにいられたら合格。何より君には笑顔が一番似合っている、とぼくは勝手に思い込んでいるのです。 文責:石井
【アーカイブ⑤】距離感と凸レンズの話
凸レンズの仕組みを覚えているでしょうか。 と言っても物理学の話をしようというのではありません。寓話には違いないものの、人と人との「距離」を考えたとき、ふと凸レンズの仕組みとの相似に思い至ったのです。 ご存じの通り、凸レンズは対象から発せられた光を集めて像を結びます。対象がまだ遙かに遠いとき、像はあるかなしかの微少な存在であり、そこから焦点距離に至るまで、対象との距離が近付けば近付くほど実像はその存在をはっきりと示すように大きくなっていくのです。 その間、焦点距離のちょうど二倍の距離にあるとき、像は対象の姿形を等身大で伝えます。もちろん、心の焦点距離が人それぞれである以上、この距離も十人十色となります。そして、そこから焦点距離までの間、像は実物以上に巨大化していき、やがて焦点距離に至って像は無限大となり消滅するのです。「近過ぎて見えないものがある」ということを、誰しもが経験的に知っているはずです。 と、ここまでで終わらないのが凸レンズの話。焦点距離の一歩内側では、対象は光を集めることをやめ、代わりに心のスクリーンの外に果てしなく大きな虚像を結びます。「あばたもえくぼ」、対象に対する願望や思い込みが時として幻影を創り出し、冷静な判断力を失えば、その幻影に惑わされたまま、ぼくらはある日突然裏切られ切り捨てられてしまいます。けれども、その虚像も、そこからさらに、互いの距離が接近すればするだけ、等身大の存在となるべく限りなく収斂(しゅうれん)されていくのです。 人間関係においても、その距離感が、対象の存在を時に小さく、また時には必要以上に大きく見せたりします。しかもそれらは実像であったり虚像であったりして、ぼくらを果てしなく翻弄(ほんろう)します。対人関係において適度な距離感(焦点距離の二倍)が必要なことは、これもまた経験的にぼくらの知るところですね。 さて、もちろんのこと、ここで問題となるのが、自身の心のスクリーンの奥行きが、果たしてどの程度のものかということと、心のレンズの焦点距離がどの辺りにあるのかということですが、その前に心のレンズのゆがみや曇(くも)りに対する日頃のメンテナンスを抜かりなく実践しなければならいないことは言うまでもありません。 その上で、知人・友人のそれぞれと、どの位の「距離感」で付き合っていくのかということが決定されるのです。凸レンズのお話でした(チャンチャン)。
【暦の話⑱】八十八夜
♪ 夏も近づく八十八夜 野にも山にも若葉が茂る ♪ あれに見えるは茶摘じゃないか ♪ 茜襷(あかねだすき)に菅(すげ)の笠 唱歌「茶摘(ちゃつみ)」に歌われた「八十八夜」。 「たすき」というと浮かんでくるのは駅伝のイメージかもしれませんが、ここで歌われている「たすき」は、作業をしやすいように袖(そで)や袂(たもと)をたくし上げる紐(ひも)のことで、赤い色をしていることから茜襷と呼ばれています。また、歌に登場する菅笠は植物のスゲを編んだ晴雨兼用の被り物ですが、ここでは日笠(ひがさ)の役目を果たしていると考えられます。ただし、テレビ等で茶摘みに関するニュースを見る限り、手ぬぐいで姉さんかぶりをする茶摘み娘の方がどうやら絵になるようです。 「八十八夜」は立春(2月4日)から数えて八十八日目ですから5月2日にあたります。ただし、昨年のように立春の日がずれると、当然のことながら八十八夜もずれてしまいます。24節気でみると5月5日が立夏ですので、八十八夜は立夏の直前にあたる雑節のひとつとなります。 「八十八夜の別れ霜」という言葉があります。「霜害」といって、作物に被害をもたらす霜ですが、八十八夜の頃を境に霜の心配もなくなるというわけです。逆に言えば、このころまでは霜の被害への注意が必要だという警告にもなります。 さて、立夏も過ぎ、ぼくが一年中で一番好きな季節「初夏」が始まります。草木の、それぞれに個性のある緑のグラデーション。若葉を透きこぼれる優しい木漏れ日。光と影のコントラスト。新緑の梢を渡ってくる風さえもうっすらと緑色に色づいて見えます。 四季折々、気候や自然のたたずまいに豊かな変化のある日本で暮らすのですから、多忙を言い訳にせず、たまには身近な自然の風景に身をさらしてみてはいかがでしょうか。 ......
4月のワクワク体験教室 報告
4月23日(土)にワクワク体験教室を開催しました。 今月のテーマは「ガウス加速器を作ろう!」でした。 まずはウォーミングアップに磁石の種類について学習。 その後、ワークシートを使っての実験観察です。 鉄球の衝突実験開始!(一部を紹介します) ① ② 予想をワークシートに書いて、結果と比較するという流れで実験を進めていきます。 実験①②は全員がすんなりと予想的中!(③は省略) ④ ⑤ 実験④までは全員がクリア。しかし、実験⑤で一部の生徒が予想を裏切られる結果に! ......
【アーカイブ④】ぼくらの時代
『まだだ。まだぼくは若い。まだ走りつづける。できればこのまま老いぼれて倒れて死ぬまで、どこまでも、どこまでも。 いつまでも一緒にいよう---その夢は消えたけれども、そのかわり、ぼくも走る。信もヤスも、走っていれば、いつかきっとどこかで会えるにちがいない。』 『いつも、明日会うつもりで別れ、昨日別れたばかりのように会えたら最高だね。』 (栗本薫 『ぼくらの世界』あとがき) 久しぶりの休みだというのに、ここのところ働き詰めだった反動か、ドッと疲れが出て昼過ぎまで寝込んでしまいました。それで、少しは外の空気にでも触れようと、午後の街にブラブラと出かけてきたのです。古本屋で気に入った本を三冊買って、そんな些細(ささい)なことですっかり元気を取り戻して、それから馴染(なじ)みの喫茶店でユラユラと香り立つブラック珈琲を飲みました。そういえばいつ頃から砂糖の入らない苦い珈琲を飲むようになったのでしょう。まぁ、それも考えてみれば大したことではありませんね。言い訳がましく一言添えておくなら、それは何も健康を考えてのことではないのは確かです。 『ぼくらの時代』といえば栗本薫の江戸川乱歩賞受賞作品のタイトルですが、その小説の内容とは無関係に『ぼくらの時代』というその言葉が、ぼくの中にずっと居座って、いつの間にかぼく自身にとってもキーワードのようなものになってしまいました。 ところで、『ぼくらの時代』といったら一体いつ頃を指すのでしょう。大体、『ぼくら』の『ら』にしてからがあやふやで、ぼくを取り巻く様々な人間関係の一体どれを指して『ら』なのかってことがいきなり問題となるわけです。あるいはこれから訪れる季節こそが『ぼくらの時代』と呼ぶにふさわしいものであるかもしれないし……と、それでは後が続かないので、取り敢えず通り過ぎたいくつかの季節を振り返ってみることにしましょう。 通り過ぎ、失うということを、ぼくが初めて恐れた時代は間違いなく中学時代です。それはぼくの時間的視野が、過去や未来に渡って広がったことの必然だったのでしょうが、その季節を彩るステキな仲間たち(先生も生徒も含めて)の存在に因るところが大きかったことは疑いありません。「教師」になろうと決心したのは、そんな風にどうしようもなく通り過ぎていく季節の輝きの代償として、次の時代を生きる若い『ぼくら』の夢の片棒を担ごうという思いつきのせいだったのです。そして、そんな夢の通りに歩き始めたぼくを訪れた新しい季節……「高校時代」「学生時代」と、ぼく自身にとっての『ぼくらの時代』も色を変え形を変え、その時々にステキな仲間たちと出会いながら続いてきたのです。もちろん、それは「今この瞬間」にも確かに続いています。だから、中学時代に漠然と感じた哀しみや不安は幻だったと言い切るだけの自信が今はあります。 大切なことは、どの時代においても、生き生きと輝けること。それぞれの季節を、肩を並べて歩くステキな仲間たちを手に入れること。訪れるどんな季節であっても、『ぼくらの時代』と胸を張って言えるということ。今なら、そんな風に思えるぼくです。 --- ここでかつての教え子二人の作文を紹介します。 --- ......
【コラム⑮】face up to~
「うつむいていた顔を上げてみましょう。」 前回のコラムのまとめに書いた一文です。 書きながら、ふと思い出したエピソードがあったので、以前どこかで紹介したかもしれませんが、今回はそのエピソードを紹介します。 もう随分と昔の話ですが、中学受験で桜蔭中学に進学した、かつての教え子からもらった手紙にこんなメッセージが書かれていました。 「先生からの手紙は、いつも私を face up させてくれるだけでなく、face up to ......