国分寺ブログ2021-05-24T15:38:56+09:00

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607, 2023

【アーカイブ㊳】梅雨の主役たち①

By |2023年07月06日|Categories: 国分寺ブログ|Comments Off on 【アーカイブ㊳】梅雨の主役たち①

【紫陽花】  紫陽花の「Hydrangea」という学名は「水の器」という何とも美しい意味なのだそうです。花の色が土壌のpH濃度等によって様々に変化するので和名「七変化」とも呼ばれます。よく見かける球状のものは改良品種の西洋アジサイで、花のすべてが額の変化した装飾花となっています。シーボルトによって世界に紹介された「アジサイ」の原種は日本のガクアジサイ(房の辺縁だけに装飾花がついてリング状に見えるもの)で、その色は「青」だったと言われています。  東京周辺の紫陽花の名所は、日野の高幡不動、文京区の白山神社、東京サマーランド「花の里」、鎌倉の明月院・東慶寺・長谷寺などなど…。  明るい空から大粒の雨の雫が時折パラパラと落ちてくるような、そんな天気の日が昔から好きでした。雫の一粒一粒が光を宿して、まるで水晶のかけらのようにきらめきます。急ぎ足で駅前のロータリーを横切っていく人の波に雨の雫が降りかかると、まるで紫陽花のように色とりどりの傘の華がパッと一斉に咲きます。それに雨の中でこそ、ぼくの好きな紫陽花の花も生き生きと美しいのだ、などと考えれば梅雨もなかなか捨てたものではありません。  まして、一晩続いた雨が名残なくあがった日の朝の風景は、例える言葉も浮かばないくらい美しかったりします。水溜りに映った青い空を悠々と流れていく雲。風が吹けばさざ波がたって、目の裏の痛くなるような光たちの乱反射。塵ひとつない透明な芳(かぐわ)しき大気。まだしっとりと露を含んだ紫陽花の花は一服の清涼剤のようでもあります。そんな風景に身をさらせば、胸のうちに生きる「元気」のようなものが静かに湧き出してもきます。  6月9日に例年より一日遅く梅雨入りした関東甲信越地方。さてさて梅雨明けはいつのことでしょう? 文責:石井

407, 2023

七夕飾り、たくさんのお願い

By |2023年07月04日|Categories: 柿生ブログ|Comments Off on 七夕飾り、たくさんのお願い

校舎で七夕飾りを飾りました。みんなで願い事を書きました。 一人で5個も6個も願い事をした生徒もいます。みんなの願いが叶うといいね。

307, 2023

【アーカイブ㊲】ウィンド・オーケストラ

By |2023年07月03日|Categories: 国分寺ブログ|Comments Off on 【アーカイブ㊲】ウィンド・オーケストラ

なぜか国分寺スクールには吹奏楽部の生徒が多い。 もうずいぶんと前のことになるが、一体何の話の続きだったのか彼女たちとの会話の中で、ぼくが「ブラスバンド」という表現を使ったところ、女生徒の一人に「ブラスバンドじゃありません。ウィンドオーケストラですぅ」とほんの少し怒った表情で言われた。それで何だかひどくしくじった気がして調べてみたのだが、吹奏楽を「ブラスバンド」と呼び習わすのは、これまである程度一般的であったようで、そのことに少しばかりほっとすると共に、これからは「ウィンドオーケストラ」と呼ぶように心掛けようと思ったぼくだ。 ブラスバンドというのは金管楽器と打楽器の編成からなるもので、木管楽器・金管楽器・打楽器の編成による音楽を、それとは区別して「ウィンドバンド」「ウィンドアンサンブル」または「ウィンドオーケストラ」と呼ぶのが正式であるらしい。 夏期講習のはざまとなる27日。 アミュー立川の大ホールで「北多摩中学校吹奏楽祭」が開催された。 ファインズ国分寺スクールに9人も通う国分寺第二中学校の吹奏楽部のメンバーに呼ばれて、ぼくは、春先の「第一回国分寺市立中学校吹奏楽部合同バンド定期演奏会」に引き続き宮尾先生と二人で彼女たちの演奏を聴きに立川へと足を運んだ。 夏の東京都中学校吹奏楽コンクールに向けて最後の仕上げに入ったはずの各中学校の演奏は、けれどもまだまだ完成途上で、どこか物足りない印象だった(去年コンクールで金賞をとり、「東日本大会」までコマを進めた国分寺第四中学校の演奏はさすがに良かったと聞いたので、これはあくまでもぼくが聴いた範囲での感想である)。 今年のコンクール自由曲であるA.リードの「小曲集より」を演奏した、肝心の国分寺第二中学校はどうであったかというと、多少のひいき目も入ったせいか、ぼくの聴いた7校の中ではもっとも仕上がりが良い印象だったが、戻ってきた生徒たち、特に3年生の表情が曇りがちであったことから推して、この日の演奏に関しては、どこか納得のいかない思いを抱いているようでもあった。 応援に行った昨夏のコンクールは銀賞であったから、それでも今年はもう少しやれそうだと判断して、会場で会ったお母さん方に「今年のコンクールは良さそうですね」と声を掛けると、深くうなづく一方で「でも金賞をとると、あとが大変で……」と複雑な表情が返ってきた。つまりは、折角のコンクールに彼女たちの大きな目標である金賞をとらせてやりたい、とって欲しいという気持ちはあるものの、そうして東日本大会・全国大会への出場が決まれば、夏期講習にしわ寄せのきている今現在の状況が、8月の上旬で終わらずに秋口まで延長されることになるという悩みゆえの表情だ。 確かに、コンクールでの活躍と夏期講習への集中とは両立不能の事態である。ぼく自身も、自らの立場を顧みては大いなる矛盾を抱えつつ、かといって応援しないという立場はそもそも選択肢に存在しない以上、彼女たちに許された学習時間の中で最大限の効果をあげるべく協力を惜しまない決意と、この夏の彼女たちの目標に対しても決して裏切らずに最後までエールをおくり続ける覚悟とを決めた。 ......

1706, 2023

【アーカイブ㊱】贈る言葉

By |2023年06月17日|Categories: 国分寺ブログ|Comments Off on 【アーカイブ㊱】贈る言葉

 届く葉書や手紙の数々をワクワクしながら読んでは、その時の嬉しさと共に大切にしまいこんでおく。ぼくの悪い癖は、大事にしまいこんだものほど、すっかり忘れて長い間眠らせてしまうことだ。  久しぶりに取り出した書簡(しょかん)入れから何年も昔の手紙の束が出てくる。処分するつもりで引っ張り出したにも関わらず、またしてもぼくは、その一枚一枚にゆっくりと目を通してしまう。すると、もう決して輝いたりしない、決まり文句と挨拶だけの手紙の束の中から、今日こうして再びぼくに読まれる瞬間を待って暗い箱の片隅で静かに息づいていた手紙が見つかる。当時、確かにぼくのために、ぼくに向けて用意されたそれらの言葉たちは、少しも色あせずそこにあって、ぼくをどうしようもなく嬉しくさせる。    ところで、ぼくの贈ったたくさんの言葉たちは、どこでどうしていることだろう。誰かの心を今も嬉しくさせることがあるのだろうか。忙しさを言い訳に、随分と筆不精になってしまったぼくも、旅に出る機会に恵まれれば、気に入った絵葉書を買い込んで、思いつく友人に片っ端から旅の便りを送りつけたりする。できれば大切な人の心に届いて、いつまでも色あせずにその意味を伝え続けてくれるような、そんな言葉を贈ることが出来たらいいと、ずいぶん欲張りなことを考えながら、性懲(しょうこ)りもなく筆を執(と)るのだ。   ※現代ではスマホやパソコンを使ったメールのやり取りが圧倒的で、特別な場合を除いて、日常的に手紙やはがきを書く機会はほとんどありません。スマホやパソコンの画面に表示される無機質な文面より、癖のある、もしくは味のある手書きの手紙やはがきの有難味は格別ですね。 文責:石井

806, 2023

梅雨入りしました。

By |2023年06月08日|Categories: 柿生ブログ|Comments Off on 梅雨入りしました。

梅雨入りが発表されました。 この時期、中3生は前期中間テスト、修学旅行、英検、漢検、と忙しい日々が続きます。 そして、あと一月余りで夏期講習が始まります。部活と学習の両立も難しい時期ですが、 ここで頑張るかどうかで、受験の様子も大きく変わります。しっかり頑張りましょう。 小6の受験生も、修学旅行、学校説明会への参加など忙しい時期ですが、しっかり勉強して、 実力を蓄えましょう。

106, 2023

【アーカイブ㉟】分岐点 ― 受験生諸君に贈る

By |2023年06月01日|Categories: Uncategorized, 国分寺ブログ|Comments Off on 【アーカイブ㉟】分岐点 ― 受験生諸君に贈る

 分岐点、それは人生のあらゆる瞬間に待ち構えていて、人生に彩りを与えもすれば、ぼくらを惑い悩ませもする。  何か目に見えぬ大きな力に押し流されて知らぬ間に通り過ぎてしまう分岐点もあれば、しっかり立ち止まって自らの意志と責任で選んで進む分岐点もある。そのひとつひとつに、捨て去ってきた別の人生があるとすれば、選んだ人生も、選ばなかった、あるいは選べなかった人生も、歳と共に網の目のようにどんどんと延び広がっていく。その複雑模様こそが人生なのかもしれない。    分岐点のひとつひとつで問題になるのは、自分にとって、果たして何が最も正しい選択かということだが、よくよく考えてみると、人生の渦中にいるぼくら自身に答えの出る問題ではないのかもしれない。  迷わずに最短距離でゴールにたどり着くには、ゴールから逆進して答えを見つけるか、もしくは全景を俯瞰(ふかん)しつつ分岐点の先にあるものを知り尽くす必要がある。だが、紙の上の小さな迷路であるならまだしも、人生という名の巨大迷路を歩くとなれば、そうもいかない。それに、もし仮に答えが探せるのだとしても、ぼくはそんなつまらないことをするつもりはこれっぽっちもない。答えのわかってしまったナゾナゾを心から楽しむには、何か別の才能が必要だ。迷路の楽しみが行きつ戻りつ迷うことそのものにあるのだとすれば、人生もまた多かれ少なかれ似たようなものに違いない。訳が分からないからこそ喜びも哀しみも大切に受け止められるのだし、こんなにも人を大事にすることが出来るのだ。何をやってもうまくいった試しがないと人生を嘆き諦めるのは、何でも望み通りになる人生が存在すると信じるほどに愚かなことだ。    「受験」、それはひとつの分岐点であり、人生に於(お)いてそう度々は訪れないちょっと大きな分かれ道である。ぼくが心から諸君を応援するのは、それが仕事だからということでは決してなく、小学時代、あるいは中学時代というものが、間違いなく諸君の人生におけるまたとない、ひとつの輝かしい季節であるからだ。心豊かな少年時代、もしくは少女時代を過ごした者だけがステキな大人になれるのだとしたら、この季節を、なし崩しに自分をすり減らして息も絶え絶えに乗り切るのではなく、むしろ生き生きと自分を満たし、しっかりと成長し切って卒業しなければならない。  「受験勉強」に、ではない、自分の「人生」に真摯(しんし)に立ち向かえ。    別々の道がいつかその先で合流して同じ結果を生み出すこともあれば、目先の成功がより大きな失敗につながっていたり、苦渋の選択のはずが結果として望ましい未来への入り口になっていたり・・・と、十年・二十年先に振り返ってみるのでなければ分岐点の先がどうなっているのかは誰にもわからない。けれども、そんな人生に於いて、反省はしても後悔だけは決してしないための、たったひとつの方法がある。 ......

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