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19 07, 2022

【アーカイブ⑭】家族を失った日

By |2022-10-21T14:54:38+09:002022年07月19日|Uncategorized, 国分寺ブログ|0 Comments

※「アーカイブ」ですので、特に年代の表記に大きなずれがあります。 早いもので、もう五年の歳月が流れます。 西暦2000年の、梅雨が明けて間もない七月の暑い夜、彼女は誰に看取られることもなく逝(い)ったのです。死期を悟った彼女が、その血に宿ったプログラムに従って人目につかない場所へと身を隠したのですから、正確には「行った」と言うべきなのですが、彼女が帰らなくなって七日目の夜、我が家では久しぶりに一同総出で、彼女を追悼する会食の席を設け、納得のいくはずもない心を持て余しつつ、その日をもって彼女の命日とすることを確認しあったのでした。 生まれて間もなく我が家の住人となり、以来十七年間連れ添った(「連れ添う」というのは適切な表現ではありませんが、相応(ふさわ)しい表現ではあります)「コタロー」と呼ばれた彼女は、大人しいくせに人見知りで人一倍臆病な、家猫として生きる以外にすべのない猫(それがいいことなのかどうかは別にして)でした。もらわれてきた当時は掌にのるほどの小さな存在で、甘えん坊の彼女は夜中になると決まって、仮の住まいであるダンボールの箱を抜け出して布団の中へもぐりこんでくるのです。そして寝ているぼくの胸の上にはい上がって、そこで安心して丸くなるのでした。成猫となってからも充分小柄だった彼女ですが、さすがに寝ている間に胸の上にはい上がられると息苦しさを感じるようになり、ていねいに言い聞かせつつ、幾度も抱き上げて下ろしたものです。すると胸にはい上がるのを諦めた彼女は、今度は添い寝をするようにして、前脚の片方を、あるいは尻尾の先をぼくの腕や足の上にのせて、それで安心したようにぐっすりと眠るのでした。 黒虎と三毛の混じったような色合いの、信じられぬほど柔らかい毛並みで、四肢の先と胸一面に真っ白い雪のような和毛が印象的な、美人というよりは可愛らしい顔立ちの猫でした。特別の場合以外はほとんど鳴き声をあげず、餌箱や水桶が空であっても、またトイレの扉が締まっている時でも、前脚を行儀よくそろえて座り、ただ黙って誰かが通りかかって気付いてくれるまで辛抱強く待ち続けていました。たまに餌をねだることがあっても、それは決まって母に対してで、彼女の好むキャットフードに、ついつい余計に鰹節などをのせてやる母の行動を見抜いていたようです。また、母や弟が抱き上げるとさっさと逃げ出すくせに、ぼくが抱き上げた時だけは安心しきったように、いつまでもその体重をぼくの腕に預けていました。遊び相手となるのは決まって弟で、時折興奮して弟の手足に傷を残したりもしました。彼女は、そんな風に家族一人ひとりとの付き合い方を決めていたようです。 五階建てマンションの最上階にある我が家の住人であった彼女は、その一生のほとんどの時間を屋内で過ごしました。いつだったか戯(たわむ)れに近隣の公園に連れ出した時など、物心ついてから初めて見る外の世界に戸惑いおびえて、丈(たけ)の短い草叢(くさむら)に、それでも何とかして身を隠そうとはいつくばり、ブルブルと全身を震わせて、とうとう一歩たりとも歩くことが出来なかったのでした。 そんな彼女も、人々の寝静まった夜更けに限っては、玄関脇の三畳間でパソコンを操るぼくを促(うなが)して、マンションの五階フロアの探検に出たりしました。そして気が向けば、後見人であるぼくの存在を振り返っては確かめつつ、四階のフロアまで降りてみることもありましたが、けれども、彼女の「外」の世界はそこまでが限界で、十七年間、とうとう自らの意志でその先の世界を踏むことなく老いを迎えたのでした。 ちょうどその日は熱帯夜で、風通しのために半開きにした玄関のドアから、彼女は深夜一人で外へ出たらしいのです。それは共に暮らした十七年間で初めてのことです。仮に彼女が自らの死期を悟って家を出たのだとしても、ぼくら家族に背を向けて一人きりの深夜の階段を、あの人一倍臆病な彼女が一体どんな思いで降りて行ったのかを想像すると、当時はもちろんのこと、五年たった今でも胸が締め付けられるようです。けれども一方で、最後の最後くらい、どうしてわがままを言えなかったのかと悔しい思いも感じます。十七年間も苦楽を共にしてきた家族の一員として、あまりにもみずくさい。むしろ、その最期を看取り、無事に野辺送りするくらいのわずかな苦労をぼくらに課してくれてもよかったのに……と。 そして、彼女のいない日常が始まり、やがて餌箱が片付けられ、彼女の愛用していたトイレの猫砂が処分され、彼女のために深夜に団地の廊下へ出て一服する時間もなくなり、次第にぼくらの哀しみは麻痺するように薄れていきます。けれども、彼女をゆっくりと忘れるように失っていくことだけはしたくなかったぼくは、仮に哀しみがこの胸を引き裂いて日毎に新しい血を流すのだとしても、あえてその哀しみを背負って歩く人生を選ぼうと、あの夏、そんな風に決意したのです。 彼女が確かに生きていた証として。そして、ぼくら家族が、どれだけその存在に支えられていたかということを失って初めて痛いほどに思い知らされた、彼女と共に生きた十七年間への感謝を込めて。 ......

15 07, 2022

【アーカイブ⑬】夏の思い出

By |2022-10-21T14:56:51+09:002022年07月15日|Uncategorized, 国分寺ブログ|0 Comments

夏が訪れるたびに思い出す風景があります。 空の一番高いところでギラッと光る入道雲。 暑さにたまりかねて飛び込んだ淵の不思議な青さ。 夕立ちにたたかれてずぶ濡れになったあとで嗅いだ草と土の匂い。 木漏れ日が友達の顔に縞模様をつくった薄暗い森の深さ。 気が遠くなるほどの蝉時雨。 半ズボン・ランニングシャツ・かさぶたの痕(あと)…。 麦わら帽子・虫捕り網・カブトムシ・クワガタ…。 ラジオ体操の朝・そのテーマソング…。 西瓜・冷やしそうめん・アイスキャンディ…。 ......

7 07, 2022

【アーカイブ⑫】星に願いを

By |2022-10-21T14:57:24+09:002022年07月07日|国分寺ブログ|0 Comments

星界を統治する天帝の娘である織女(しょくじょ=こと座のベガ)は、天の川のほとりに住む機織(はたおり)の上手な働き者の娘でした。織女の織り上げる布は大変上等で、光の加減によって五色(ごしき)に輝いたそうです。 お化粧もせず着飾ることもしないで仕事に精を出す娘を心配した天帝は、天の川の対岸に住む、やはり働き者の牽牛(けんぎゅう=わし座のアルタイル)を娘婿(むすめむこ)として認め、二人を結婚させます。めでたく夫婦となった牽牛と織女でしたが、夫婦生活が楽しいあまり、次第に織女は機を織らなくなり、牽牛は牛を追わなくなっていきます。そのため天帝は怒り、二人を天の川を隔てて引き離し、真面目に仕事に精を出すのであれば年に一度、七夕の夜に二人が会うことを許したのです。 天の川には渡しの舟(上弦の月)があるものの、雨で増水でもすれば運休となってしまい、折角の夜に二人は会うことがかないません。そんなとき、どこからかともなく無数のカササギがやってきて、折り重なるように翼を広げて天の川に橋をかけてくれるのでした。 以上が中国における「七夕」の伝説です。 古代中国には重日(ちょうじつ)思想なるものがあって、月数と日付が重なる日(例えば1月1日、2月2日等)を特別なものと考えました。また奇数を陽の数、偶数を陰の数として、特に陽の数の重なる日(例えば3月3日、5月5日等)には、それぞれの季節にちなんだ節句を行ったのです。7月7日の七夕ももちろんその節句のひとつです。9月9日を「重陽の節句」と呼ぶのは、一桁の(けた)の奇数で最も大きい<9>を陽数の代表と考えたからでしょう。 さて、七夕の夜とはいっても、例年であれば日本列島は梅雨の真っ最中で、7月7日の重日にこだわるのであれば、統計的にみて4年に一度しか星空を眺めることができないのだそうです。牽牛(けんぎゅう)と織女(しょくじょ)の一年一度の逢瀬(おうせ)がそれではあまりにもむごい気がします。 旧暦の7月は秋の初めであり、ゆえに「七夕」「天の川」といったこの日にちなんだ言葉は秋の季語となるわけですが、そうであれば東北三大祭りのひとつ仙台の七夕祭りのように、すっかり梅雨も明けた8月7日の「立秋」を待っての星祭りの方が理にかなっています。 折角なので、日本における<伝統的>な七夕の行事が正確にどのタイミングで行われていたのかを整理しておくことにしましょう。 24節気の中の14番目にあたる処暑(しょしょ=新暦8月23日頃)よりも前で、処暑に最も近い朔(さく=新月)の日を基準にし、その日から数えて7日目を「七夕」の日と位置付けたのだそうです。ですから七夕の夜には必ず天の川の渡し舟となる上弦の月(7番目の月)がかかっているのです。 織女の織り上げる五色の布にちなんで、五色の短冊に願い事を書いて笹の葉に飾るこの七夕。晴れた日であれば天頂を通過する牽牛と織女の姿が眺められます。わし座のアルタイルと琴座のベガ、それに白鳥座のデネブを加えれば夏の大三角の完成です。北十字とも呼ばれる白鳥は、本来であれば天の川の上空を雄々しく羽ばたいてゆくのですが、残念ながら天気の良い日であっても東京ではその天の川を望むことはかないません。確かにそこにあるはずのものが見えないというのは、もどかしいものです。 ......

1 07, 2022

【満員御礼】7月ワクワク体験教室は締め切りました。

By |2022-07-07T14:52:08+09:002022年07月01日|国分寺ニュース, 国分寺ブログ|0 Comments

7月の「ワクワク体験教室」 予定していた人数の上限に達しましたので、7月7日をもってワクワク体験教室の申込みを締め切りました。 早速参加申し込みくださった皆様、有難うございました。  秋以降は受験指導が本格化しますので、現時点では「ワクワク体験教室」の開催は予定しておりませんが、教室の空き具合とスタッフのスケジュール次第で、臨時の「ワクワク体験教室」を開催する可能性もあります。開催が決定いたしましたら、HPのブログおよびニュースでお知らせいたします。  宜しくお願いいたします。

23 06, 2022

【アーカイブ⑪】沖縄慰霊の日に寄せて

By |2022-10-21T14:58:18+09:002022年06月23日|Uncategorized, 国分寺ブログ|0 Comments

この季節になると思い出すことがあります。 それは二度目に沖縄を訪れたときのことです。 はたしてぼくにそんな資格があるのかどうかという大きな不安を抱えたまま、かつて「ひめゆり学園(沖縄師範学校女子部・沖縄県立第一高等女学校)」のあった安里(あさと)地区を基点に、レンタカー(とてもじゃないけれど歩いて回る勇気は持てませんでした)で1945年の<ひめゆり>の少女たちの足跡を追った日のことです。 まるで散る以外に明日を持たなかったような少女たち。その面影を、たとえわずかなイメージであったとしても、ぼくは胸に刻んでおきたいと考えたのです。沖縄への憧れを意識した日から十四年かかってようやく沖縄にたどり着き、こうして繰り返し沖縄を訪れる以上、そこを避けて通ることは、どうしてもぼくの中で許されないことだったのです。 沖縄には対外的に、大きく分けて三つの顔があります。琉球王国においてひとつの頂点に達し、以来脈々と受け継がれてきた「歴史・文化」的な側面。世界でも有数のリゾート地に数えられる美しい「自然」。そして、否応なく刻まれてしまった「戦争」の傷跡。そこに、それらを一見超越しているようで、実のところ完全に切り離されることはない微妙な距離感を保って人々の「日常」が横たわっています。 二度目の訪沖の目線の高さを「戦跡」としての側面に合わせることに決めたのはいいけれど、沖縄の戦跡といっても、それこそ足を下ろす場所にさえ困るほど無数にあります。まずは<ひめゆり>から始めようと考えたのは、訪沖に先立つ5月に、仲宗根政善の手になる「ひめゆりの塔をめぐる人々の手記」を手に入れたことがきっかけでした。その一冊を繰り返し読んで、ガイドブック代わりに持ち歩いたぼくでした。 1945年3月24日。 「ひめゆり」最後の物語は、この日から始まります。 詳しい記録はさまざまな関係書に委ねるとして、その足跡のおおよそは以下の通りです。 米軍の沖縄上陸作戦に先駆けて慶良間(けらま)攻略と同時に始まった本島への艦砲射撃が、少女たちの運命を後戻りのできない地獄へと導いていきます。 ......

17 06, 2022

6月ワクワク体験教室「-70℃の世界」

By |2022-06-17T22:19:11+09:002022年06月17日|国分寺ニュース, 国分寺ブログ|0 Comments

6月の「わくわく体験教室」  物質の状態変化(個体⇔液体⇔気体)・ドライアイスの性質に学習したあと その性質を利用した楽しい実験を行います。 ①ドライアイスロケットを打ち上げよう! ②ドライアイスでエアホッケーをしよう! ③ドライアイス+アルコール(寒剤)=―70℃の世界(おまけのアイスキャンディを作ります。)   ■ 6月25日(土) 14:00~15:00   ■ 次世代ゼミ ファインズ国分寺スクール   ■ 対象学年  小学1年生~小学6年生(定員 先着10名) ......

13 06, 2022

【アーカイブ⑩】自分を大切に

By |2022-10-21T14:59:01+09:002022年06月13日|国分寺ブログ|0 Comments

 自分を大切にしない人は哀しい。  自分しか大切にできない人は嫌いだ。  人のために自分をすり減らす人を見ると、こちらまで不幸になる。  人を踏みにじって心に痛みを感じない奴を見ると腹が立つ。    だからいつも、ぼくは自分を大切にする。  人を踏みつけていくためではなく、人を大切にし、人を愛する資格として。  だからいつも、ぼくは人を大切にしようと思う。  自分を犠牲にするのではなく、自分を生かし、自分を完成に近付ける手段として。 文責:石井

11 06, 2022

【コラム㉔】三種の神器

By |2022-06-13T13:54:53+09:002022年06月11日|国分寺ブログ|0 Comments

    名古屋に所用で出かけた際、時間が余ったので名古屋城と熱田神宮を巡りました。ちょうどよい機会かと熱田神宮にちなんで「三種の神器」について整理してみようと思います。   「さんしゅのじんぎ」「さんしゅのしんき」「みくさのかむたから」等さまざまな呼び方のある「八咫鏡(やたのかがみ)」・「天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)」別名「草薙剣(くさなぎのつるぎ)」・「八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)」を、みなさまご存じでしょうか。  古事記によれば、天照大神(あまてらすおおみかみ)は、孫にあたる「ににぎのみこと」が葦原の中つ国に天孫降臨する際にこの三種の神器を授けたとされています。   ■「八咫鏡」はもちろん鏡ですが、古代の銅鏡であると解釈される一方、古事記の記述に沿って鉄製である可能性も指摘されています。 ■「天叢雲剣」は、ご存じの方も多いと思いますが、天照大神の弟神であるスサノオノミコトが、出雲で倒した八岐大蛇(やまたのおろち)のしっぽから出てきた宝刀です。その後、天照大神の手に渡り、さらに日本武尊(やまとたけるのみこと)が譲り受けます。東征で現在の静岡まで来た時に、野原で四方八方から火をつけられて火攻めにあったとき、辺りの草を薙ぎ払い、火打石を使って逆に迎え火をつけて難を逃れたという故事以降「草薙剣」と呼ばれるようになったのです。ちなみにその場所は、現在の「静岡県焼津市(やいづし)」で、故事にちなんだ地名となっています。 ■「八尺瓊勾玉」は、その名前から大きな赤色の玉(ぎょく)でできた勾玉と考えられます。   ......

9 06, 2022

【アーカイブ⑨】五月雨

By |2022-06-09T21:49:25+09:002022年06月09日|国分寺ブログ|0 Comments

 明るい空から大粒の雨の雫(しずく)が時折パラパラと落ちてくるような、そんな天気の日が昔から好きでした。見渡す限りの空間を満たして落ちてくる大粒の雨の雫のひとつひとつが光を宿して、まるで自身が光を放ってでもいるようにキラキラと輝いています。急ぎ足で駅前のロータリーを横切っていく人の波に雨の雫が降りかかると、色とりどりの傘の華がパッと一斉に咲きます。  空のどこか高みに風の通り道があるのか、雲のかたまりがびっくりするほどの速さで北へ流されていきます。空はどこか明るくて、今にも雲が切れそうです。その雲の上では日毎に光の飽和したあの夏の空が用意されていきます。そして地上には、一体誰の粋な計らいか、その空の色を写した紫陽花の花……。  そんなふうに考えれば梅雨も案外捨てたものではないですね。    ご存知のように「五月雨(さみだれ)」の「五月」は旧暦の五月であって、つまり「五月雨」とは「梅雨」を指す言葉であります。従って「五月(さつき)晴れ」は「梅雨晴れ」ともなり、梅雨の合間の晴れた日を表現した言葉という理解になります。ところが、字面に導かれてか、これらは「五月の雨」「五月の気持ちよく晴れた日」とのイメージが強い気がするのです。ただし現代では「五月晴れ」に限って新暦をそのまま当てはめて後者の扱いも許容されます。    この「五月雨」という言葉、「古今集」以来用いられてきた雅語(がご)で、対して「梅雨」は俗語となります。「さみだれ」を「小乱れ」に掛けて恋に心乱れる様を歌ったわけですが、いかにも平安歌人らしい気がしますね。    ところでこの季節、空模様だけでなく、ぼくらの生活そのものもどこかはっきりしないぐずついたものになりがちです。季節感と生活心理との呼応は恐らく間違いのないことで、日本人はそういった傾向がことさら強いようですが、だとすればなおさら、心にも「五月晴れ」の一日を用意する工夫が必要になってきます。心までカビてしまわないように、しっかりと心の窓を開け放ち、新鮮な風を送り込んでやりましょう。   ......

7 06, 2022

【コラム㉓】そうだ 京都、行こう! ⑥

By |2022-06-07T21:31:05+09:002022年06月07日|国分寺ブログ|0 Comments

 平安神宮の鳥居の大きさには目を見張ります。  左京区岡崎にある平安神宮は、平安遷都1100年を記念し第50代桓武天皇を御祭神として明治28年に創建されました。  幕末から明治維新にかけての動乱、および東京奠都(てんと)で、物理的にも心理的にも荒廃・衰退した京都を復興する際の、ひとつの象徴的な建築であったと想像されます。  ※「遷都(せんと)」と「奠都」はほぼ同義と考えて間違いありませんが、遷都がこれまでの都を廃して新都に移る意味であるのに対して、奠都は単に新しい都を定めるという意味で、これまでの都(京都)を廃する意味合いを含んでいないという違いがあります。当初は京都の人心や反対派を抑えるために形ばかり東西両京という体制をとったと考えられます。  平安神宮の社殿は、桓武天皇による遷都当時の平安京の正庁・朝堂院が約8分の5の規模で再現されているそうです。壮大な平安神宮ですが、朝堂院はさらにその1.6倍の規模であったということです。1200年前に、その規模の建築が行われたと考えると想像を絶しますね。  京都岡崎のランドマーク「大鳥居」をくぐり、岡崎公園を抜けて平安神宮をゆっくりと巡るころには、日頃の運動不足のせいかさすがに疲れも出て、休憩がてら水分補給するつもりで隣接する「京都ロームシアター」の「京都モダンテラス」に寄り道です。  居心地がよく、つい長居をしてしまいましたが、日没前に鴨川デルタを渡ろうと今回の突撃・京都旅行の最後の行程に出発します。  幕末の歴史の舞台ともなった二条城に続く二条通りを通って鴨川河畔に出て、東岸をのんびりと遡行します。二城大橋から丸田町橋・荒神橋・加茂大橋をくぐって鴨川デルタまでおよそ2kmの道のりのです。斜面に足を投げ出して夕涼みをする人、全身スキのないウェアに身を包みランニングをする人、レジ袋を提げて犬の散歩をする人、仕事帰りのスーツ姿。 誰もが、川端通りではなく河川敷の遊歩道を行き交います。日常生活の中に、そんな風に憩いの時間や空間があることが少しばかりうらやましいくらいです。    ......

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